2024年2月3日土曜日

連載エッセイ 12の8

   実際には●●療法を行う場合にも、それらの治療的な関りの背景として、様々な情動的なものが患者と治療者の間に動いている。患者は治療者に対して「この人は信用できるのだろうか?」「このセッションは時間をかけて通い、高いお金を払って受ける価値はあるのだろうか?」等の様々な気持ちを抱く。次のセッションのアポイントメントを取りながらも、「もうそろそろやめたいと思うが、どうやって切り出したらいいだろうか?」と考えているかもしれない。あるいは「●●療法は結局効果がなかったが、最初からあまり過剰な期待をするべきではない」という一種の社会勉強の機会にはなるかもしれない。しかし逆に「●●療法は実質的に意味ある形では行われなかったけれど、担当の先生の誠実な人柄に触れて、また先生に認められたような気がして自信が付いた」という体験かも知れない。そしてそれらのすべての体験を本来は治療的に把握し、扱うべきなのである。

  治療関係が相互のディープラーニングであるという事を突き詰めて考えるならば、どのような関係も実は裸の人間同士の認知的、情緒的なふれあいであるという事だ。治療構造や治療契約、治療上のお作法は仮に身にまとっている服のようなものであり、それはお互いを守るものであってもお互いの情緒的なふれあいをいたずらに制限するものではないという事だ。


脳科学が示す非決定論的な心の世界


 最後に脳科学的に理解された心の最も基本的な性質、すなわち非決定論的な性質が臨床家に指し示すことについて述べておこう。精神療法の流派は様々であるが、基本的に決定論的な心の理論をベースにしていると考えて差し支えない。つまり私たちの言動や振る舞いにはなんらかの原因がある、あるいは因果関係があるという考えである。これは決定論的な理解、因果論的な考えといえるが、私たちが想像する以上に私たちの心を支配している。

 例えばあなたが朝起きて体全体のけだるさを感じるとしよう。「何かの病気かな?」とちょっと不安になるが、「ああ、昨日の夜飲みすぎたための、二日酔いなんだ」とわかると少し落ち着く。不明な出来事に理由が見つかると私たちは安心するのだ。それと同じように人の心に何か説明のつかない出来事を発見すると、とりあえずはいったんは「多分~のせいだろう」と考えて心を落ち着かせるのである。

 しかし心の世界での因果論的な説明を強く推し進めたのは、フロイトの無意識の概念にもとずく精神分析療法である。無意識が症状を、ジョークを、自由連想を、夢を、転移状況を構成する。という事は例えば症状には意味があるというわけである。しかし第5回目で見た脳科学的な心の在り方の原則を思い出していただきたい。それは意識はあくまでも「随伴現象」であるということだ。つまり脳が先で、意識はそれによって引き起こされるのだ。私達の主体性や自由意志の感覚でさえも。

連載第5回からの以下の引用の内容を思い出していただきたい。

 「随伴現象説 epiphenomenalism」とは、心は脳の随伴現象であるという立場をさす。つまり脳における現象の結果として心が生じると考えるのだ。 (中略) しかしこのように言うと次のような質問を受けるかもしれない。

「心が自由意志を用いて『こうしよう!』と思ったら、脳がそれについてくる、という順番は考えられないのですか?つまり脳が心に随伴するという可能性です。」 

たしかにこのような発想も成り立つかも知れない。これは上記の意味での随伴現象説と全く逆の現象の可能性を考える立場だ。そして一昔前なら私たちはその可能性を否定する根拠を持っていなかった。しかし現代の私たちは、この心→脳という方向性の因果関係は成立しないということを知ってしまっている。それがベンジャミン・リベットによって提起された「自由意志と0.5秒問題」なのである。そしてこの発見により、結局は「心は常に脳の変化の後についてくる」という事実を私たちは受け入れざるを得なくなったのだ。つまり私たちが自由意思に従って何かを行ったとしても、その少なくとも0.5秒前に脳がその準備をしているということが明らかになっているのである。