2024年2月2日金曜日

連載エッセイ 12の7

  最近の研究では幻視を呈する様々な精神疾患(精神科的、神経内科的な疾患に関わらず)で、ある共通した現象が見られるという。そもそも何かを視覚でとらえる際には、大脳皮質と視床の間で活発なやり取りが行われる。大脳皮質は目から入った視覚的な信号が直接入力される部位であり、それを情報として統合するのが視床だから当然である。ところ幻視においても、直接の視覚情報は目から入らないにもかかわらず、皮質-視床の間の交信の高まりが見られるというのだ。つまり幻視の際も実際の視覚体験も脳のレベルでは同じことが生じるのであり、だから主観的には両者を区別できないことになる。だから幻覚により誰もいない部屋で人の姿を「見た」という体験は、とても「気のせい」のレベルの体験ではない。

 私がそもそもトレーニングの土台としたのは精神分析理論だが、そこにある基本的な考え方は「患者の直接の訴えの背後に目を向ける」というものである。確かに患者の訴えは心の奥底でうごめいているものに対する様々な加工が加えられて表に現れる。患者の言葉を額面通りにそのまま受け止めるだけでは臨床家として失格であろう。しかしだからこそ時には患者の言葉をそのまま受け止めることも大切なのだ。そのことをフロイトも、こう言ったという。

「時には葉巻はただの葉巻でしかない。Sometimes, a cigar is just a cigar,”

つまり葉巻のように細長いものが常にペニスの象徴ではない、という意味だ。

 この連載ではいくつかの精神疾患についても脳科学の文脈で論じた。それらは解離性障害、薬物嗜癖、行動嗜癖、トラウマ関連障害等であった。それらの脳科学の知見が教えてくれることは大抵は次のことだ。患者の訴えはその人の「意思の弱さ」や「甘え」や「気のせい」や「自己アピール」だけでは説明できないことばかりなのである(たとえそれらの要素が混じっているとしても、と言っておきたい。)では決まって次のことだ。つまり患者が描写する彼らの体験は一見意味をなさず、それは本人の意志が弱いのではないか、甘えているのではないか、という気持ちを起こさせるが、脳における機能の異常がどの様な形で関与しているかを知ることで、その訴えの深刻さをより理解できるようになるということである。

精神療法とは、治療者と患者の脳の「相互ディープラーニング」である

 

 脳を知ることは患者の訴えに信憑性を与えてくれること、と言うのが第一の論点であった。第二点は、脳科学的な知見が、私達の治療者としての心構えにどのようなインパクトを与えるのかについて述べたい。

 私がこの連載の第2~4回で脳科学の話とニューラルネットワークの話を同時並行で始めたのは、私たちの脳科学的な知見がコンピューターサイエンス、特にいわゆる「生成AI」との間に類似関係があるという点を強調したかったからである。

 そもそも1950年代にはじまるニューラルネットワークモデルの原型は、神経細胞と神経線維の連結を模して造られたものだ。それは入力層と隠れ層、出力層の三層構造をなし、それぞれに10個程度の神経細胞を模した素子を配置するといった構造を持っていた。そして隠れ層や素子の数を増やしてその性能を上げていくことが行われた。それはコンピューターの性能の向上とともに加速度的に複雑になり、隠れ層も1000層にもなり、素子も数千を越えるようになった。しかしそれでもニューラルネットワークが脳に比肩するような性能を得るようになることを想像する人は少なかった。なぜならほんの十数年前のコンピューターはとても人との自然な会話など成り立たず、だからアルファ碁が2015年に人間の名人を軽く打ち負かし、ChatGTPが人と変わらぬ文章を構成するようになったことは、多くの人にとって驚きだった。

 しかしそのような進歩を遂げたことで見えてきたのは、ディープラーニングが人間の活動に模した学習方法をとったことがうまくいったという事である。(と少なくとも私は考える。)

 ディープラーニングが高度の知能を獲得したのは、間断のない自己学習をさせ、それこそアルファー碁なら自分自身で高速で毎日何万、何十万(あるいはもっと多いかもしれない)と行った結果、驚異的な進化を遂げたのである。

 ここでディープラーニングの行った自己学習がなぜ人間の活動を模しているかと言えば、人間の中枢神経そのものが巨大なニューラルネットワークであり、出生直後から、あるいは胎児のころから強化学習 reinforcement learning を一人で行っているようなものだからだ。知覚を通して伝えられる様々な刺激のインプットに対して体の動きや言語表現というアウトプットを行い、恐らくはそれが快や不快というインセンティブを媒介して自己学習を行うシステムだからだ。

 このように考えれば、人の活動は環境とのかかわり(そしておそらく精神内界とのかかわりも含め)はことごとく自己学習であることがわかる。そしてもちろん対人交流は相互ディープラーニングという事になる。

このように考えると、精神療法で○○療法、××療法等の形式に従って行う治療が、相互のディープラーニングの本の一つの側面を抽出しているに過ぎないという事が分かるだろう。