私はこれまで自己開示については、かなり論じてきたが、一つ言えることは、自己開示にはかなりテクニックとしての色彩が強いという事である。それは例えば中立性や受身性や禁欲原則の遵守等と少し性質が違うからだ。私たちは治療中に「よし、ここで中立性から少し逸脱しよう」「ここで患者の願いを聞き入れよう」等とはあまり考えないものではないかと思う。それらはいつの間にか、無意識的に、知らぬまに起きていることが多いのだ。
自己開示の場合も同様の性質があるわけだが、時々「これに関しては私の側から~について伝えよう。上手く行けばいいのだが。」という風にかなり意図的に行なう場合がある。考えてみれば、中立性や受身性には、非言語的な要素が強い。ところが自己開示はまさにバーバルなのである。という事は、自己開示のうちバーバルな側面について、それをテクニックとして扱うことに意味があるという事であろうか。
つまりこういうことである。治療者が「私もそう思います。」と言ったとしよう。そこにどのような抑揚や情感を込めるかはほとんどがテクニック外の、ノンバーバルな要素である。ところが「ワタシモソウオモイマス」という言語内容そのものはテクニックの範疇だと言えるのだ。そしてそれはある程度理屈で、理論でカバーできることなのである。
原則の1
わたしが原則としてあげたいのは、治療者が患者の話題を取り上げないという事である。クライエントさんから生の声を聴くことが多いが、多いのは、いつの間にか治療者がどんどん話してしまい、患者が「私の時間じゃないの?」と言いたくなるような状況が多いという訴えだ。これはもちろん自己開示だけに留まらない。ある客観的な事実や出来事についての解説であってもいい。私自身の例では、患者さんが学生時代にブラスバンドに入っているという話を聞いた時などだ。大抵私はどの楽器を担当していたかを尋ねてしまう。そしてその楽器を扱っていた時の苦労などについて尋ねたりし始めかねない。もちろんこれについては私自身が注意しているわけだが、つい自分の関心事であるために尋ねてしまう。あるいは患者さんの出身地が私がよく知っている場所であれば、それについても少し詳しく聞いてしまうという傾向がある。これらは自己開示ではないものの、私が持ち込んだ話題、という事になりかねない。
ある時初診の患者さんが県立千葉高等学校の出身であることを知ったが、その瞬間私の高校時代を思い浮かべ、つい言ってしまった。「毎朝坂を上って通学するのは大変だったでしょう。」(千葉高校は、小高い台地の上にある。)ちなみに結局このケースは同窓生という事でその患者さんとのラポール形成に役立った気がしている。しかし場合によっては「あなたが私と同じ高校の出身であることなどカンケーありません!」となってもおかしくなかった。