2023年9月6日水曜日

連載エッセイ 8 推敲 4

以下は全く推敲のレベルに達していない、ただの書下ろしだ。

 分離脳が示す人の心の在り方

 以下は今回の話のまとめであるが、かなり私の主観や憶測が入り込んでいることはお断りしておきたい。

 人の心の真の姿は右脳に宿っている。外からの情報をまず大枠で取り込み、情緒的な判断をするのは右脳だ。そして右脳はその感情や判断に基づいた行動を起こしかけるだろう。他方では左脳はその行動について他者や自分自身に対して言葉で説明しようとする。それが正しいか否か、ではなく、とにかく「説明」する。そしてこれまで見たように、左脳は単独で働く際にはかなりあからさまに、ないしは機械的に行うのである。何しろ右脳に損傷のある人は、自分の動かない左手を見て、「それは私の手ではありません」と説明しようとさえするのだ。

 ここで脳の基本的な特徴を思い出していただきたい。脳の部分は、それが周囲から孤立すると暴走するのだ。左脳はそのために妄想的にすらなることが知られている。右前頭葉の損傷などで妄想は一つの症状とさえなりうるという。また左脳の中でも運動性言語中枢であるブローカ野が感覚性言語中枢であるウェルニッケ野から切り離されると、ウェルニッケ失語症と言って、言葉は流暢で多弁ですらあるが、人の言葉を理解できず、また言い間違いが多く、意味のない言葉を羅列する等の様子が見られる。つまり喋る能力だけが切り離されて勝手に暴走しているロボットのようになってしまう。

 このように考えると左脳は、右脳と一緒になることで初めてその真価を発揮できるようになるのだろう。左脳が作り出す言い訳に対して「それはいくらなんでもおかしいだろう」とストップをかけてくれるのは右脳なのだ。

 例えば朝目が覚め、仕事に行きたいという気持ちともう少し寝ていたいという二つの異なる右脳の声を私達はしばしば聞く。両方とも本音であり、その意味で右脳はいつも正しい。しかし「今日は風邪をひいたので仕事を休みます」という左脳の言い訳に対して「そりゃ無理だ!」というダメ出しをするのも右脳の方なのだ。この意味で左右の脳は相互補完的であり、2つがあって一つなのである。決して片方だけでは役に立たない。

 しかしそれでも優位なのは右脳の方だと私は言いたい。右脳は主で、左脳は従である。精神医学では言語野のある方(ほとんどの場合左脳)を優位半球、反対を劣位半球と呼ぶが、それはきわめて不正確で、むしろ正反対なのだと私は言いたい。

 右脳が優位であるという点を忘れるとどうなるだろうか。それは左脳の産物を絶対視してしまうことにつながる。私たち現代人、特に欧米社会に生きる人たちがまさに直面している問題なのだ。例えば私たちの行動を規制しているのは、たとえば自然法則であり、理論の整合性である。そしてそれは左脳により生み出され、磨き上げられるのである。そして自然科学の分野であれば、この左脳の優位性は必然なのだろう。いかに常温での超電導物質が発見されたという報告を人々が信じたくても、厳密な論文の審査でその正当性が判断され、場合によっては却下されることは極めて重要なのだ。

 しかし同様に法律や裁判のプロセスはどうか。法廷で自分の行動を正当化し得たことで、それに基づいた判決が下されるかと言えば、多くの場合全くの期待外れである。被告が正しい主張をしたつもりでも、裁判官がそれを信じたくないという、十分に強い右脳の声を聞き、それを正当化できるような理屈を左脳により作り上げることが出来たのであれば、被告の証言は採用されないのである。

 いかに弱者を守り、強者の不正を取り締まるべく法律を整備しても、常に勝つのは自らの右脳に基づいた行動を巧みに正当化する左脳の働きの力が必要なのだ。もちろんそれをなし得るのは、ごく一握りのカネと権力者を有する人たちなのであるが、その力は決して侮れない。ロシアがウクライナに攻め込む時に、自分達の領土を何としても広げたいという右脳の意図は、左脳により作られた「ウクライナに居るロジア人を守るためだ」という理屈により糊塗される。弱肉強食の国際社会での紛争ほど、国連の決議という左脳の産物が無力化されてしまう例はないだろう。そこで生じているのは言葉を持たない猿の社会での右脳同士の弱肉強食の戦いと少しも違わないのだ。