2023年6月8日木曜日

トラウマとPD 2

  虚心坦懐にPDのことを考えた際に言えることがある。それは端的に、人が例えば家庭内で見せている顔と、職場などで見せている顔には極端な差があり得るということである。そしてそのどちらが本当の顔かは決められないことが多い。私自身も考えて、社会の中で示している顔は家庭内とは真逆でさえあることが多い。では私のパーソナリティはどのように判断されるかと言えば圧倒的に社会における顔であろう。でもそれはある程度作っている、ないし作られているものであるという自覚がある。いわば仮面としての側面を有するわけであるが、それが私のパーソナリティと判断されることの意味はどれほどあるだろうか。
 ここで私が指摘したいのは、私達はしばしば人の中にその人の本質を想定し、その人独自のパーソナリティがいわば実体化されて想定されるということだ。それが例のカテゴリカルモデルだ。でも実はそこにあるのは特定の状況で反応するパターンがいくつか雑然と存在するに過ぎない。それをできるだけ正確に伝えようとするといくつかの次元ごとに分けるしかなく…・結局ディメンショナルモデルになってしまう。非社交性、制縛性、離隔、否定的感情、脱抑制の割合を点数化して示す、という例のやり方だ。

要はPDの世界もまた混とんとしていて曖昧だ。それもあってDSMの多軸診断も消えてしまったのである。

ただPDの存在理由がそれでもあるとしたら、社会におけるある種のパターンを示し続ける人である。それで沢山のカテゴリー(例えばスキゾイド、が消えても、BPDだけはしぶとく残るということだろうか。

 PDが曖昧になったいくつかの理由。

1.  発達障害の概念、ないしはHSP(超敏感パーソナリティ)の議論などの高まりにより、従来のPD混入してくるものが増えてきた。

2.  いわゆるヒューブリス症候群、ないしは成人後に獲得されたパーソナリティの存在。

3.  CPTSDに見られるようなトラウマの影響としてのパーソナリティ傾向。

これらによりPDは「希釈され」、今や純粋系を保ちづらくなってきた。別の見方をすれば、従来のPDが「草刈り場」になりつつあるということでもある。それが現在のPDをめぐる現状である。