2023年6月28日水曜日

学派の対立 9

 結局結論として何が言いたいのか

私の場合は学派の選択は臨床を行っている際の肌感覚に関連したものであった。更には私自身のパーソナリティが関連している可能性もある。そしてその意味では私自身の特殊事情だという気がする。

例えば第3の例でのマイクとの関りでも、私が彼に謝罪をしたことで一人のスーパーバイザーから言われたことも、それほど深刻に悩むことではないかも知れない。実際彼のスーパービジョンを受けていた精神科のレジデントや精神分析の候補生たちが、私のような体験をしたかもしれないが、そこで私のようなレベルで悩んだり、治療者とはどうあるべきかについて深刻に悩まなかったかも知れない。結果として私はドクターAに反論し、ドクターBの学派に大きく傾いたが、普通はもう少し平和的に納めるかもしれない。「そうか、色々な考え方があるのか。とりあえずバイザーであるドクターAの言われるとおりにしておこうか」となるかもしれない。
 しかし同時に、患者にとってはここで治療者が謝罪するかどうかはかなり大きな違いがあるし、場合によっては患者のその後の人生や人間観を大きく変えるのではないかとさえ思う。そう考えれば私のこだわりもそれなりの意味もあったものと思われる。
 さてその上でいえば、私が学派の多様性を受け入れるということは、ドクターAのような立場とドクターBのような立場を心において、色々なケースや治療関係がありうること、そしてドクターAのような考え方も治療的に有効かもしれないという立場を認める事であろう。それは私の実感に沿わないが、どうやらそういう立場もあるらしい、と受け入れる事であろう。それはそれで重要なことだ。つまり多様性を認めることは、自分の立場だったらこうだ、ということと矛盾しないことなのである。
 最後にこの問題を他者性の問題と繋げて考えてみたい。他者を受け入れるとは、ある意味では分からない存在を分からないなりに認めるということだ。他者とはある意味では宇宙人のようなものだ。自分の共感の及ばない存在をもう一つの主体として遇するということは、おそらくウィニコットの議論を持ち出すならば、「他人を用いる」ということになる。相手の考えを想像できるならば、その相手は自分と関係するという段階に置くことになる。ところが相手を分からない存在と見なすことは、「主体的な現象の外側に置くこと」なのです。(続く)