2023年6月27日火曜日

意識についてのエッセイ 9

 主観性の錯覚の兆すところ

前野氏の言うように、脳に裏打ちされた私たちの心は、そのかなりの部分がニューラルネットワークにより(彼の言葉を借りるなら「小人たち」により)営まれていることになる。それはネットワークの自律性と考えてもよい。私たちの脳の大部分は自動操舵、オートパイロット状態なのである。私たちの意識はそのオートパイロット状態に対して人が注意を払わなくてはならないような状態で兆すということが出来るであろう。その意味では意識とは、自動運転する車に乗っている補助運転手のようなものだ。普通は殆どを任せているが、時々「しかしなかなかやるなあ。本当に任せていいんだ。」「今はもう少し早くブレーキをかけたかったな?」「ここは駐車位置を手動で訂正しよう。」などを考えたとする。それはちょうど意識的な思考に相当するわけだ。逆に言えば、脳が全く期待通りの活動をした場合には、意識には何も上らず、記憶は形成されず、したがって何も想起されないということになるだろう。
 この様な意味で前野氏は、意識や主観性という幻想は、エピソード記憶を作るという合目的的な進化の結果として生まれたとする。これは言われてみればその通りであろう。要するにクオリアを体験するということは、それをエピソードとして思い出すということと同じなわけだ。
 意識に関する有名な理論であるフリストンKarl Friston の「脳の大統一理論」と、ドーパミンの「報酬予測誤差」の理論とはそのような文脈で理解できるだろう。
 フリストンによれば、彼の提唱する自由エネルギー原理は数式を使って、ニューラルネットワークでの処理として表すことが可能であるという。私達は常に社会生活の上で他者の心のうちを推測している。すなわち共感は彼の理論の範疇ということであろうか。私たちが生きているということは常に「外環境」を予測して動くということである。もし予測通りにことが進むと、世界は安全で御しやすく、そこで用いる心的エネルギーも最小ということになる。極端な話、そこに予想外な事や驚きが存在しなければ、すべてが無意識裏に生じるということにもなろうか。すると意識活動とはこの予測誤差の検知ということに費やされるということになる。意識化されるということは、何か新しいことが起きたということを意味し、それは記憶に残るということになる。
 一例をあげるならば、朝の電車が定刻通りに駅に到着することを予想する。そしてそのために時間を合わせて自宅を出、駅に向かい、首尾よく勤務先の最寄りの駅に到着する。すべてがスムーズに行ったことになる。ところが電車の遅延があり、いつもより30分も遅れて会社に到着することが予想されると、そこで仕事の予定が大幅に変わり、それによる様々な不都合が予測される。するとあなたは次の日から、電車の遅延が起きる可能性を考え、それに対する予防策、例えば朝の出勤の時間を少し早くする、などの手段を講じるだろう。
 2006年ごろからカール・フリストンというイギリスの研究者が、脳の情報処理の原理を説明する一般的理論「自由エネルギー原理」を提案し、この理論に基づいて脳のさまざまな機能の説明を試みてきた。

乾敏郎・阪口豊(2020)脳の大統一理論 自由エネルギー原理とは何か。岩波科学ライブラリー 299 を今何度も読んでいる。