クオリア問題について
考えてもみよう。バラについての様々な客観的な事実を人間の何万倍も詳しく示すことの出来たAIが、ある日こう言ったとしよう。「打ち明け話ですが、実は私はバラの素敵なイメージを感じることが出来るのです。ほのかな甘みを伴った香しさ、深紅のビロードのような花弁…」などと言い出したら、「やばい、このAIは心を持ち出したかも・・・・」となるのではないか。LaMDAのいっていたことは、ルモインさんの主張は正しい(エッセイ第2回目)ということになる。
しかしここに一つの考え方が成り立つ。クオリアとは結局は差異である、と。Aという体験とBという体験を明確に別のものと区別できるとしたら、それがクオリアの始まりである。クオリアを体験するとは、主観がそれまで生きる過程で得た、数限りない体験を、「ああ、あれはAであってBでもCでもない」と認識できるということなのだ。
私にとっての意識とは何か、というテーマは一応ここで落ち着いていて、あまりそれ以上悩んでいない。チャーマーズの言う「ハードプロブレム」は一応自分なりにここで治まっている。すると例の心と【心】の際の問題もある程度の結論は出かかっていることになるのだ。
細胞工学 株式会社秀潤社のHPより。
https://www.nig.ac.jp/color/barrierfree/barrierfree1-2.html
クオリアとは差異である、と言い切る一つの有力な例。例えば赤い色、緑色、黄色などはクオリアの一つの典型と言っていいただろう。ではそれらの間の差異は何か。色のクオリアを構成するのは、網膜の錐体細胞の興奮の度合い
である。錐体細胞には、青、緑、赤に反応する3種類がある。そしてそれぞれがどの程度興奮するかにより、いわば三次元空間の一点として表される。例えばバラの赤紫色(r:rose)は、その差異の青錐体の興奮度をXr、緑錐体のそれをYr、赤錐体のそれをZrとすると、(Xr,Yr,Zr)として表されるとする。それはオレンジの橙色(o:orange)を表す(Xo,Yo,Zo)とは異なる点である。そして両方が三次元空間上異なる点である、ということが、両者が識別されるということを保証する唯一の事実なのだ。
ここでクオリアとは差異であるという意味をもう少し説明したい。というのもこの差異が体験される形でしかクオリアは形成されない。例えば世の中がすべて赤い色で染められているとする。濃淡はあるが、基本的には赤しか存在しない世界にあなたはいるとする。あなたはすぐに赤というクオリアを感覚として失い、ただの明暗しか存在しない世界としてしか体験しなくなる。それは他の色が表れて、それとは異なる色であるということを認識させてくれるまで続く。
私は子供の頃授業中に退屈し、目の前の「机」を眺めて、どうして机って「ツクエ」なんだろう、と考えていたことがある。そしてツクエ、ツクエ、ツクエ、と何度となくつぶやいているうちに、次第にツクエが普段の「机」のイメージから遊離していき、何の意味も持たない音のように感じられ始めて、とても不思議な気がしたことを覚えている。ツクエって何だ? それから別の考え事に移り、またしばらくしてツクエに戻ると、それは再び「机」の感じ、クオリアを取り戻していたのである。複雑なクオリアを持つ「机」でさえ、しばらく他のものと隔離をするだけでその質感を失う、という一つの例である。
https://www.nig.ac.jp/color/barrierfree/barrierfree1-2.html
クオリアとは差異である、と言い切る一つの有力な例。例えば赤い色、緑色、黄色などはクオリアの一つの典型と言っていいただろう。ではそれらの間の差異は何か。色のクオリアを構成するのは、網膜の錐体細胞の興奮の度合い
である。錐体細胞には、青、緑、赤に反応する3種類がある。そしてそれぞれがどの程度興奮するかにより、いわば三次元空間の一点として表される。例えばバラの赤紫色(r:rose)は、その差異の青錐体の興奮度をXr、緑錐体のそれをYr、赤錐体のそれをZrとすると、(Xr,Yr,Zr)として表されるとする。それはオレンジの橙色(o:orange)を表す(Xo,Yo,Zo)とは異なる点である。そして両方が三次元空間上異なる点である、ということが、両者が識別されるということを保証する唯一の事実なのだ。
ここでクオリアとは差異であるという意味をもう少し説明したい。というのもこの差異が体験される形でしかクオリアは形成されない。例えば世の中がすべて赤い色で染められているとする。濃淡はあるが、基本的には赤しか存在しない世界にあなたはいるとする。あなたはすぐに赤というクオリアを感覚として失い、ただの明暗しか存在しない世界としてしか体験しなくなる。それは他の色が表れて、それとは異なる色であるということを認識させてくれるまで続く。
私は子供の頃授業中に退屈し、目の前の「机」を眺めて、どうして机って「ツクエ」なんだろう、と考えていたことがある。そしてツクエ、ツクエ、ツクエ、と何度となくつぶやいているうちに、次第にツクエが普段の「机」のイメージから遊離していき、何の意味も持たない音のように感じられ始めて、とても不思議な気がしたことを覚えている。ツクエって何だ? それから別の考え事に移り、またしばらくしてツクエに戻ると、それは再び「机」の感じ、クオリアを取り戻していたのである。複雑なクオリアを持つ「机」でさえ、しばらく他のものと隔離をするだけでその質感を失う、という一つの例である。