2023年6月13日火曜日

池見陽先生との対話

  今年の統合精神療法セミナーの私の担当は6月4日(日)であった。午前中はフォーカシングの大家である池見陽先生の体験過程の講義、午後は私が「共感」についての講義をし、そのあと池見先生との対談となった。いろいろ刺激を受け、実りの多い一日であった。自分の臨床スタイルがフォーカシングとも共通点を持つことはあまり考えていなかったことである。

以下はそこで私が池見先生の発表へのフィードバックとして伝えた内容である。

池見先生の発表原稿を何度も読ませていただき、そこに流れている雰囲気が私にはとても心地よく、それこそ共感を覚えるものでした。ジェンドリンの理論が精神分析へのアンチテーゼを含む点も、私自身の立場と一致しています。というのも私も分析家としての立場から古典的な精神分析理論については常に批判的に再検討を加える身だったからです。
 私の発表と重なる部分から申し上げますと、「人は無意識に突き動かされる存在ではない。また人のうちに「無意識」や自己」や「真の性格」などは存在しない。むしろ過去を振り返ってそうと気付くものである」(p.3)という部分です。フロイト的な治療感は徹底して治療者目線であり、患者の中に病理を発見しようという立場ですから、いわゆる本質主義、つまり患者の言葉の中に何か本質的なもの、隠されているものを見出そうとする観察者の立場になります。ただこのモデルで上手く行く場合もありますが、多くの場合そうではない。例えば患者が治療者に腹を立てている場合には、それを抑えていたとしても言葉の端々に現れてくるかもしれない。その様に比較的見えやすい例なら沢山あります。ところが無意識を持ち出すと、例えば今のあなたの言葉は、無意識的な攻撃性の表れだという風に解釈すると、あるいはあなたの真の自己の表れだ、とすると、それを患者本人が実感できないだけに(なぜなら無意識的だから)いわば言った者勝ちになってしまい、そこからは分析者のペースになってしまいます。なぜならそれは治療者にとっては正しい解釈で、患者はそれを受け身的に受け入れなくてはならなくなる。ところがこれはフェアではありません。
 結局治療関係は二人の間で展開していくものであり、その行方は実は誰にもわからないものです。そこで出来上がっていくものが実は必然性があったのだと思うと、あとから思えば「これが無意識的なテーマだったのだ」となる。ただし私はそうとも考えていません。むしろ展開して出来上がったものは、今の現実として受け入れ、出発するという立場があります。それはそれでいいと思うし、今の私は昔からあったとも、展開したとも言えます。いい影響を受けて、延びるポテンシャルが延びたとも言うことが出来るでしょう。例えば私は今こんな仕事をしてこんなことを書いていますが、例えば30年前にすでにその兆候があったかと言えば、その時から変わらない部分もあれば、その時は予想していなかったことが起きたという部分もあります。ある意味で宿命的で、ある意味で偶発的であるという、現実が含む両面性を共に味わうのが治療ではないかと思います。しかしそこで重要なのは、治療者の側もしっかり影響を与え、また患者から影響を受けて変わっていくということを体験することではないかと思います。
 私の発表にも含めましたが、ドネル・スターンが未構成の体験という考えを提出しています。私はこちらの考えに賛成です。そしてそれが先生のジェンドリンの理解と非常に共通する部分があると考えます。ただし時には解離体験のようにまさに埋もれている記憶があり、その場合は発掘モデルもあり得ると思います。
 更に人間が二人で話すという行為は、まあ治療もそうですが、相互にディープラーニングをすることです。互いが様々なレベルで相互に影響を及ぼし合い、学習をしあう関係です。

(以下略)