共感は必要なもの、いいもの、大切なものという考えを私はごく自然に持っていたが、最近の「反共感論」についての議論を追うにつれて、それはとても重要なテーマであり、共感=善、共感が治療の要であるという考え方には慎重になるべきであると考えるようになった。そしてそのうえで私は共感は人間に不可欠なものと再び考えるようになっている。そこで今日の話は以前の考えをバージョンアップした共感論である。
まず共感が善なるものという考え方は多くの人々が唱えるものである。もとアメリカ大統領のバラク・オバマは「現代の社会や世界における最大の欠陥は共感の欠如である」といったという(反共感論 p.28)。これは一般常識のレベルではよくわかる主張であり、私もとても「共感」できる。例えばある独裁的な政権を握る人が他国に戦争を仕掛けるということが現在の世の中でも続いているが、人々は次のように思うだろう。
「独裁者が少しでもわが子を送り出す自国の兵士の親や、敵国の被災者の気持ちに共感できるのであれば、あのような無慈悲な攻撃をすることはないであろう。」
つまり他者の苦しみに共感できないことが世の中の不幸の原因になっているという考えである。ただしその独裁者を支える国民の一部、ないしは多くが、その独裁者の「我々は望んで戦争を仕掛けたのではない。むしろ相手側が仕掛けたのである」というロジックに「共感」し、支持しているからこそ戦争が続いているという事実に目を向ければ、この共感が諸刃の剣であるということにすぐ気が付くことになるだろう。だから手放しに共感の重要さを訴えることが、そして皆が自分以外のすべての人間に共感を向けようと訴えることが問題の解決にはつながらないことは明らかなのである。そこでこの共感の性質について、少なくとも臨床家である私たちが十分な理解を持つことは極めて重要なのである。