2023年2月10日金曜日

ある巻頭言 推敲 下

  ここで改めて問おう。「資質」を伴わない分析家がヒエラルキーの上に立ち、権威を持つことには問題が伴わないだろうか? そして分析家になった後にその「資質」がかえって損なわれる可能性があるとすればどうだろう?それを考える上である精神分析系のケースカンファレンスを思い浮かべよう。
 発表者のA先生はまだ経験年数が浅く、また精神分析のトレーニングが殆どないとしよう。そして助言者は名の知れた精神分析家B先生である。ここでA先生が報告した治療的な介入のある部分に対して、B先生が批判めいたコメントをするとしよう。A先生は自分のケースとの関りにある程度の根拠や自信があったとしても、B先生に反論したり議論を持ち掛けたりすることは恐らく起きないであろう。というのはその決着が見えているからだ。それはA先生の力量不足、経験不足ということで終わる可能性が高い。たとえA先生の側に一理あったとしても、そしてA先生自身が実は「資質」を備えつつある治療者でも、やはり最後にものを言うのは分析家としての権威を伴ったB先生の主張であろう。特にA先生の治療的な介入が伝統的な分析的態度からやや外れていると見なされる場合には、この傾向が著しいだろう。
 さてここで問題となっている「資質」についてもうすこし明らかにする必要があろう。もちろんそれについての臨床家のコンセンサスはあってないに等しいが、私にとって「資質」を有するのがどの様な人かはかなり明確である。それは自分の身内の誰かが治療を必要とした時に、安心して委ねることが出来ると思える人だ。もっと言えば私自身が必要な時には安心して話を聞いてもらいたいと感じられる人である。私というどうしようもない部分を持つ人間を、自分と同じひとりの人間として受け止めてくれる人だ。もう少しわかりやすい言葉でいえば「謙虚」な人だ。欲を言えば、確かな臨床経験に裏付けられた謙虚さを備えた治療者である。自分の価値観を持ちつつもそれを絶対視せず、他者のそれを認めるような治療者である。
 この様に私が考える「資質」とは、その人が生まれ持ったものとは言えない部分がある。それは人生において経験により獲得されていくものかもしれないし、逆に失われていくものかもしれないのである。その意味では先ほどのB先生も、分析家になる前は、それなりの「資質」を有していた可能性がある。B先生は自分なりの考え方を持つ一方では、異なる考え方を持つ他者をも尊重するという立場を取っていたかもしれない。そもそも人間はあまり自信がない時は、「謙虚」であらざるを得ないのだ。
 しかし分析家になるための階段を上り詰める中で自分の経験にもとづいた、あるいは誰かから借り受けた考え方にも少しずつ自信を持ち、それが唯一の正解であると考え始めるかもしれない。そしてB先生が分析家の資格を得るころには、「これはあくまでも私個人の考えですよ」と前置きをし、その他の考えを容認する姿勢を保とうとしても、周囲が「いや先生のおっしゃる通りです」というメッセージを送ってくるだろう。B先生が分析家になり、その権威をいつの間にか背負うことで治療者の「資質」を失って行ったとしたら、これほど皮肉なことはないだろう。
 私がここで述べる「資質」はある種のトレーニングで獲得できるものだろうか?それにはあまり期待は持てないかも知れない。いったんトレーニングがシステム化されることでヒエラルキーや権威の問題は必然的に生じるからである。しかし確かに言えることは、その「資質」は患者とのやり取りの中で各瞬間に問われていることなのである。