2023年2月4日土曜日

快感原則 2

  目の前の患者Bさんがこう言う。「あの人と連れ添ってきて幸せだったと思ったことは一度もありません。ずっと別れたいと思っていました。人はあの人のことを素晴らしい人だ、作家であり政治家であり、一種の天才なんだというでしょう。でも夫は自分の関心のあることばかりを好き勝手にやるばかりで、私には何も注意を向けたり優しい言葉をかけてはくれませんでした…。」

 セラピストは口には出さないが、静かに思うのだ。「奥さん、あなたの旦那さんが破天荒だったのはわかります。身勝手なところもあったでしょう。でも彼の配偶者として体験したことは、他の誰と一緒になっていたとしても決して味わえなかったかも知れませんね。」そして思うのである。夫婦生活での一番の問題は、相手がいつも身近にいることで、相手が与え続けてくれたことに対しては見えなくなり、相手が奪い続けているものだけが見えることなのだろう。人はどうして今持っているものの有り難さを認識できないのだろうか?」そして「自分だって同じことをしているのだろう。」とつぶやく。

もっと単純な例をあげよう。私は両目の視力が1.0であることを普通は感謝したり喜んだりしない。駅まで自分の足で普通に歩いていき、地下鉄に乗り、仕事場に着くということがどれほど幸せな事かについて歓喜したりしない。でも視力を突然失って途方に暮れている人、変形性膝関節症に悩まされて杖なしには歩けなくなった方は、私のことをどれほど羨ましく感じる事だろうか? あるいは私は普通の生活が出来ることをなぜ感謝して毎日を送ることが出来ないのか。

 何が問題か? 私は報酬系というシステムが持つ性質に原因がある、と言いたい。報酬系は新たに獲得したものについての快をすぐに与えてくれなくなる。同様に新たに喪失したものについての不快は次第に薄らいでいくが、新たな獲得による快ほどにはすぐに消えて行かない。場合によってはいつまでも痛み続ける可能性がある。そうすると報酬系は差し引きマイナスに働くではないか。人間は不幸になることを運命づけられているのだろうか? おそらくそうであろう。報酬系は人を目先の報酬や損失に敏感にさせてくれる一方では人を幸せに導くものではない。一日をいかに安全に生き延びる助けとなるための装置であり、闘争・逃避に関わるものだ。だからこそ下等生物から備わっていたものである。何しろそこで中心となるドーパミン系のニューロンは、ごくごく下等な生物であるCエレガンスでさえ備えているというのであるから。私達人間は報酬系という装置を鍛え、飼いならさらなくてはならないのだ。