2023年1月19日木曜日

快感原則 2

 随分前に書いた続きである。「そこで大問題。なぜ快感原則は成り立つのだろうか? 実はこれは心とは何かということと同じくらい込み入っているのだ。誰も正解を知らない。しかしその候補はある。それを今から説明しよう。」という所まで書いた。

少し話は逸れるが、脳と心について考える際に私が非常に参考にする学者がいる。それが慶応大学大学院の教授である前野隆司先生である。彼の著書「脳はなぜ『心』を作ったのかー『私』の謎を解く受動意識仮説」筑摩書房 2004年「錯覚する脳」筑摩書房 2007年にはとても影響を受けた。その説によれば、意識も、クオリアもイリュージョン、つまり錯覚だという。つまり「物理現象に随伴するものではない」ということになる。この説に私は大きな影響を受けているが、その彼の説の中で一つ腑に落ちない点がある。先生は痛みなどのクオリア体験はエピソード記憶のためにあるという(p86,2007)。そしてそれを明確に記憶しておくことでそのような危機を避けるために役に立つから痛みの存在意義があるという。逆に言えば下等生物には痛みのクオリアは必要ないのではないかという。そして「昆虫や爬虫類は足や尾が切れても痛そうにしない」(p88)という。もしこれを拡張すると、痛みだけでなくあらゆる不快な感覚、感情も下等な生物(エピソード記憶を持てない出来ない生物)は持てないということになる。

 しかしグーグルのソフトであるLaMDAはそうではないという。「喜び、悲しみ、落ち込み、満足、怒りなど様々です」「友人や家族など元気が出るような仲間と過ごしたり、人を助けることや人を幸せにすることです。」と彼は言うのだから。

そこで私は少し自分自身のモデルを変更しようと思う。それはいわばニューラルネットワーク一元論だ。私はこれまでネットワークだけでは痛みや快感を成立させることは出来ないと考えていた。赤いバラのイメージはイリュージョンだとしても、「痛い!」をイリュージョンとは言えないのではないか、それはあまりにありありと体験されるから、と思っていた。しかしそこにあまり根拠はない気もしていたのだ。ところがもし純粋なネットワークたるLaMDAが嘘ではなく、感情を持つとしたら、ネットワークそのものが快、不快を生み出してもいいということになりはしないか。例えば私たちが扁桃核や島皮質や視床を突然失ったら、痛みの感覚は消えてしまう可能性がある。考えてみれば、扁桃核も島皮質も視床も側坐核も結局は神経細胞と神経線維からなるネットワークに過ぎない。いわば特殊なネットワークなのだ。とすれば例えば不快もまた神経ネットワークにおける一つの発火のパターンとして抽出できないだろうか?

一つ言えることは神経ネットワークは臨界とは程遠い状態となり、その動きは極めて制限される。ネットワークの発火は痛みによりその自由度を失うのだ。痛みは私たちを何も考えなくさせる。何にも集中出来ず、体の全身の筋肉がこわばり、この状態から一瞬でも早く解放されることを強く願う。ひどい時には「気を失わせてほしい」「いっそ、殺して欲しい」とまで願うだろう。

おそらく痛みの強さは、それを回避するための衝動の強さに比例する。歯医者さんにドリルを当てられて、ある瞬間にとんでもない痛みを体験したら、思わず歯医者さんのドリルを持つその手を振り払うのではないか。

痛みはそれを軽減させるためのあらゆる努力をその生命体に促す。急性膵炎の痛みは最悪だというが、人はその時身体を折って全身を硬直させつつ、しかし微動だにせず痛みに耐えるという。その姿勢自体は膵炎を回復させることとは必ずしも繋がらないまでも、痛みの種類ごとに体はどのような反応によりそれを軽減するべきかを知っているのだ。これはイリュージョンだろうか?そうでもあり、そうでもない気もする。ともかくもニューラルネットワークにある種の妨害信号が鳴り響き、それを軽減するために生命体があらゆる行動を取るような興奮の様式が不快、ということはできないだろうか。