2023年1月10日火曜日

脳科学と象科学 1

私は前回(第一回目の連載)の最後に書いたことをしっかりと覚えている。しかし脳科学に関心を持つ私にとって、「脳組織というハードウェアにインストールされているソフトウェアはおそらく存在しない」ということだ。この問題は私にとっても結構深刻な問題だったからだ。もちろんこの問題については続けて論じるつもりだが、今回はちょっと違った切り口から始めよう。やがてつながってくるはずだ。

そこで今回は、脳科学は「象科学」であるということから話をしたい。しかし象科学(ゾウカガク)なるワケのわからぬ造語(ゾウ語?)をタイトルに用いると、読者は一瞬で引いてしまうかも知れない。そこで急いで説明が必要である。そうすれば脳科学が象科学であるという意味を分かってもらえるだろう。

私は「脳科学者」という肩書とともにテレビやネットに出てくる先生方を見ていて不思議に思うことがある。彼らの専門分野はあまりに様々で、いったい何が脳科学なのかがわからなくなってしまう。彼らは誰一人として同じような話をしていないように思えるのだ。

そこで象科学者の登場である。彼らは「私はゾウカガク者です」と自己紹介をする。そこで最近の研究成果を話してもらうと、ゾウカガク者のA先生は「ゾウは大変硬く分厚い皮のようなもので覆われています。その面積は・・・・」などと話し出す。次にB先生に尋ねると、「A先生の話は専門外なので分かりませんが、ゾウは大変頑丈な4本の柱のようなものを持っています。一本の足は総重量○○トンを支えることが出来ます。」。C先生に至っては「A先生もB先生も、お話は専門外なので分かりませんが、ゾウの消化管には人に見られない独特の腸内細菌が見られ・・・」と専門的な話を勝手に始める。「盲人象を撫でる」の例えではないが、ゾウの研究と言っても様々に専門化、細分化され、どのゾウ科学者の話も象という存在の本質を一言でとらえてくれない。

脳科学もそうなのだ。脳の神経細胞一つ一つの性質を追う学者もいれば、神経細胞間のネットワークを研究する人もいる。神経細胞ではなく、それを支えている神経膠細胞を専門に扱う人もいる。脳の細胞が出すかすかな電流をとらえる脳波の研究者もいる。そして脳で生じる腫瘍について研究する医学者もいる。脳の中で活躍する神経伝達物質について滔々と語る精神科医もいる。脳科学者と称する人々も結局は細分化されたエリアに関する研究を行っているのであり、「脳科学一般」の専門家ではないのだ。

だから「脳科学から見た○○」「××の脳科学的な理解」というセミナーや講演を聞いても、そこで「脳科学とは何か」という好奇心を十分に満たすことは決してできないのだ。そしてもちろん私のこの連載もそうである。私の言う「脳科学」は私が妄想的に信じ込んでいる「脳の科学」でしかない。読んでも決してすっきりしないだろう。(ただしそれは脳科学が「象科学」だからだという理解が得られるかもしれない。)このことは最初にお断りしなくてはならない。では改めて脳とは何か。物体としての脳を研究しても、極めて細分化されたアプローチによって得られるデータが集積するだけだ。それをまとめて何かを示してくれるような、「総合脳科学者」とでもいうべき人に私は出会ったことがない。いや少し白状するならば、私は少しでもその存在に近づこうとしているのだ。なぜなら私は脳を、心をわかりたいと思っているからだ。そして精神医学や精神療法などの、人の心に直接かかわるような仕事をすると同時に脳科学的な知見についてはなるべく吸収しようと試みている。それでも脳科学には深くかかわっていないのではないかと疑われるのであれば、精神科の薬物療法は一応脳科学的な専門性(精神薬理学)を備えた立場で行っていますよ、と言いたい。ただし実験系の仕事はしないことにしている。なぜならば脳科学の実験を行うということは、それに誠実に取り組もうとすればするほど、様々に細分化されたテーマのうちの一つに取り組むことになり、ゾウ科学者的な脳科学者にはなれても、「総合脳科学者」への道は遠のいていく。そこで「総合脳科学者」として扱うテーマとはどのようなものかと言えば、前回書いたようなテーマ、すなわち脳というハードウェアにインストールされるべき「こころ」という名のソフトウェアがあるのかといったテーマについて論じることになる。そして私がとりあえず示した答えは、「おそらく否」なのである。(おそらく、とつけるのが気弱なところだが。)

そこですぐさま反対意見に遭うことになる。(というか自分から進んでその役を買って出ている。)「だって本能があるじゃないですか?あれってすでに脳にインストールされているプログラムではないのですか?」前回の最後にも書いたとおり、ミツバチは誰から教わらなくても蜂の巣を一つ一つ構築する方法を知っている。これらはプログラムされているのだ。下等になればなるほどプログラムはその生命体の行動を大きく支配することになる。しかしだったらそのプログラムをアンインストールすることが出来るかというとそうでもない。それはあたかも機械仕掛けの人形のように、ハードウェアそのものに備わった性質なのだ。でもそれでもプログラムと呼ぶのであれば、それを一種のソフトウェアとみなして脳にはじめから出来上がっているものと考えてもいい。確かに人間にも本能があり、喉に職塊が差し掛かれば自然と嚥下反射が起き、また年頃になれば異性(多くの場合は、である)に近づくと体がむずむずしてくるだろう。そしてそれらの多くは脳の神経の配線に依存しているであろうし、またDNAという設計図にかなり依存しているところがある。

では心はと言えば、それはおそらく存在しない。DNAのどこを探しても心の動かし方を示すようなコードは見つからないであろうと私は考えている。