2022年8月1日月曜日

不安の精神病理学再考 推敲 1

    「不安の精神病理学」再考 の推敲の段階に入る

 「不安の精神病理学」について論じる資格があるのは、精神科の臨床医であろうか?精神病理学者であろうか?それとも脳科学者であろうか?はたまた精神分析家であろうか?しかもそれを「再考」するだけの見識や資格を誰が備えているといえるのだろうか?
 筆者が思うに、不安について最初に心と脳科学の見地から本格的に論じたのはシグムンド・フロイトだったのである。そしてそれはある位置まで到達したまま、本格的に論じられないでいる。読者の中にはこれほど脳科学的な見地が積み重ねられた現代において不安の精神病理学が新しい進歩を遂げていないことが信じがたいかもしれない。しかし不安という精神現象の様々な脳科学的な所見を集めることと、不安という現象をその全体像として、しかも心の立場から理解するという努力は、現代においても決して十分になされているとは言えないのである。

現代の精神医学における「不安」

現代の精神医学においては不安の占める位置は低下しているらしい。精神医学の診断基準のゴールドスタンダードであるDSM5ICD-11では「不安障害」としてカテゴライズされる障害は減少している。これまではいわゆる神経症群≒不安症群にあらゆるものが入っていたが、DSM-52013)に強迫神経症、PTSD,急性ストレス障害が不安性障害から「旅立って」いったのだ(塩入、p.2中山書店 2014) ただしそれだけでは不安性障害はパニック障害、全般性不安障害、社交不安障害くらいだけになってしまうので、外部からの援軍があった。それが分離不安障害と場面緘黙だったのである。

しかしこれはどのような現象として理解すべきなのだろうか?一昔前なら、神経症 = 不安を主たる体験とみなす傾向があった。神経症とは不安の病であるという観念は、フロイト以来多くの精神科医の頭にあったのである。フロイトの考えや定式化は、やはり長い間準拠枠になっていたのである。
 
ただし不安という概念は古いものの、病名として出てきたわけではなかったという。むしろアメリカの神経学者である  George Beard により提唱された神経衰弱 neuroasthenia の概念が広く浸透し、不安に関連する疾患はほとんどこのカテゴリーに属していた。そしてフロイトもこの神経衰弱という概念から不安に基づく概念を取り上げ、不安神経症と名付けた、とある。

不安の概念は精神医学のみならず精神分析や哲学においても主要なテーマであった(Stein, 2004)。

Stein, DJ. (ed(2004) Clinical Manual of Anxiety Disorders. American Psychiatric Publishing.

 不安の精神病理について論じるにあたり、フロイトの思考を置くことは必須である。フロイトの方の上から論じるにしても、彼が何を言わんとしていたかを大雑把にたどる必要がある。ただしそれは生易しいことではない。それは彼の神経症を理解するうえでの決め手となる概念であり、それだけに彼の生涯の中で色々変遷し続けたのだ。結局は続・精神分析学入門(1933)あたりになってようやく固まってきたということだ。(フロイトが10年長く生きたら、これもまた変わっていたかもしれない。)フロイトは一つの学説を立てると、それまでの自分の説を否定することが多いが、それでもどれが正しかったかという議論はさておき、面白い考えをたくさん提示している。というよりもフロイトがどうしてこれほど不安に固執したかが興味深い。おそらく彼は不安とたくさん抱えた人だったのだ。

フロイトが不安について語りだしたのは、精神分析を確立する前の話だ。1895年の「『不安神経症』という特定症候群を神経衰弱から分離する理由について」で不安について論じ、そこでリビドーの鬱積して生じる不安という意味で「鬱積不安説」を説いた。そして1898Sexuality in the Etiology of the neurosis.ですでに述べている。
現実神経症:不安神経症、神経衰弱、心気神経症
精神神経症:ヒステリー、強迫神経症、恐怖症、自己愛神経症

 実はここら辺はフロイトの理論の中で一番錯綜していて、心情的に追うことのできない理論である。ただ心の動きを一種の流体力学的な発想で説明することは当時のヘルムホルツ学派の考えからすれば自然なことであった。そして当時根強かった性愛論、特にマスターベーションが健康を害するという説、ヒステリーの性愛説なども強固に彼の頭にあった。そしてその中で彼が臨床経験で受けたカタルシス効果ないしは除反応臨床的表れがあった。ある種のせき止められた感情が、昔の外傷記憶の想起とともに一挙に放出、浄化され、それが治癒につながるというプロセスは彼をしてリビドー論の正しさを確信するに至ったのであろう。そしてその中で出てきた不安の理論である。それはフロイトが生来様々な文脈で不安を体験し、それを彼の精神病理学の中に組み込む努力のあらわれであったのではないか。

 発想としては、正しいセックスが出来ないとリビドーが不安に転嫁されてしまいますよ、ということだ。フロイトは実は性交中絶からくる不安もこの類だと考えていた。ここでリビドーを単純に「報酬」に置き換えたら少しはわかるだろうか。性交中絶により報酬が得られなくなると不安になる、とフロイトは考えたことになる。しかしこれはむしろ落胆、フラストレーションに近いと思うのだが、フロイトはこの時はこれをまだ不安と呼び続けたのだ。これは私たちが今読むと「え、どうして?」と思うだろう。「ヤリ過ぎ」による腎虚という古臭い概念を私たちは知っているが、性生活と神経症との関係を私たちはあまり重視していない。フロイトはそうではなかったのだ。しかしフロイトはもっと普通の不安についての発想を持つようになる。

 フロイトは「性欲論のための3篇」(1905年、岩波6 p289)に1920年に付けた注で、不安についてこのようなことを言っている。
 ある3歳の少年が暗闇で叔母さんに話しかける。暗闇が怖いので返事をして欲しいという。そして叔母さんの声を聞いた子供は安心する。叔母さんが「部屋は暗いままなのにどうして安心するの?」と尋ねると男の子は「叔母さんの声を聞くと明るくなる」と言ったという。フロイトはこのようにして不安は愛する対象の不在によるものだとする。さてここからがフロイトの意図を読めないのだが、フロイトはこのことから神経症の不安がリビドーから生じること、そしてリビドーが不安に変換されるのは、酢とワインの関係だ、という。ワインというリビドーが酢という不安になるということだ。この理屈が分からない私はバカなのだろうか。いやそんなことはない。フロイトは後にこのリビドーが抑えられた結果として不安が生まれるという説を否定するからだ。
 3歳の男の子の例の方がむしろ分かりやすいだろう。不安が叔母さんがそばにいることを実感するという「報酬」により解消された。不安は暗闇に一人置かれたという危機的な状況により生まれる。この方がずっとスッキリする。この場合は酢からワインへ、という方向になる。この説の方が分かりやすい。
 フロイトが「性欲論三篇」(1905)にこの注を付けたのは1920年だが、すでにフロイトはこの不安学説に矛盾を感じていたのだろう。