2022年7月16日土曜日

不安の精神病理学 再考 5

 私の考える不安の本質

ここでもう少し私自身の考察を深めてみよう。私はよく不安に駆られるが、そこにはいくつかのパターンがある。しかし概ね(このまま行くと)将来ある種の苦痛を味わうかもしれない、という予期不安の形を取りやすい。と言うよりか、予期分の形を伴わない不安はあまり考えられない。ではこの将来のある種の苦痛をどのように規定するかと言えば、それはカタストロフィー、つまり破滅である。起きうる最悪の事態、そしてそこには強烈な苦痛が伴うような事態である。不安はそれに対して「用心せよ」という警告だ。そしてそのカタストロフィーは別に「死」である必要はない。「不死」もそれが恐れるべき事態となり得る。

どうして予期不安が生じるかと言えば、それは私たちが人間だからだ。人間は人間以下の動物に比べて未来を予知することが出来る。そしてそれを回避するための手段を持つことが多い。しかしそれが回避できないとしても、身構え、注意を払い、わが身に及ぶ害を最小限にしようとする。その時たいていは身体は交感神経優位の闘争逃避反応を示している。そしてこの身体的な反応と精神的な反応とは相互性を有する。一方は他方を誘導するのだ。だからパニック発作のように、理由もわからず胸がどきどきして手が震えだすと、人は条件反射的に不安を体験するのだ。

さてこの不安は強迫行為とも結びついていることは興味深い。鍵を何度もチェックしないと気が済まない人は、それをしないと何か不幸なことが生じると感じる。その際大したことは起きないと頭では分かっていても、その考えが侵入してくる。ある人は車で橋を渡ることが出来ないが、それは橋を渡るとその橋が落ちるという考えに襲われているためだ。しかし他方では「そんなはずはない」とわかっている。だから橋を回避するということでその不安が和らぐが、その代わり一定の場所(つまり橋を渡ることが回避できないところ)より外には行けなくなってしまう。

私達が考えるカタストロフィーは、上の例でもわかるとおり、恣意的で大概は独りよがりのものである。例えば私は不安の執筆依頼があると不安になる。大抵はあまり書きたくない原稿なので、ほっておきたくなる。しかしそのような自分を放置しておくと、確実に原稿を書けずに終わってしまう。だから一日に三行だけでも書くと不安が和らぐ。簡単なことだ。しかし原稿が書けないで終わってしまうことがカタストロフィーかと言えばなんだかそうでもない気もする。これまでは一度もないが「すみませ~ん、書けませんでした」ということもありかなとも思う。でもそれはやはり受け入れがたいことだとすると、カタストロフィーなのかもしれない。

ここで重要なのは、私が毎日書く三行は、多分に儀式的なものだということである。自分を安心させるための行為。その意味で強迫と同じである。鍵をもう一度チェックしたらようやく安心して家を離れることが出来る。そしてその背後には魔術的思考が存在するのだ。「自分が~したら、~を防げるだろう」という思考。逆の「もし~したら大学に受かるだろう」というタイプもある。もちろんそれがゲン担ぎ、ジンクスであるというのはわかるが、人はこれを回避することが出来ない。例えば死者は丁重に葬る。そうしないと何か災厄が訪れるような気がする。これを無視して死者を無下に扱うことを普通の私たちは出来ない。「~すると(しないと)バチが当たる」という思考は不滅なのだ。不安はこの問題とも絡んで来る。