2022年5月26日木曜日

他者性の問題 109

 結論 最近のDIDをめぐる動きをどのようにとらえるか

  以上二章にわたって司法領域における解離性障害、特にDIDについて論じた。その全体をまとめてみよう。まず司法では責任能力という概念が極めて重要になるために、それについて論じることから始めた。医学では対象者(患者)がどの様な病気に、どの程度苦しんでいるかが問題とされる。しかし司法ではその人がどの程度「罪深いか」が問題となる。つまり司法では医学とは違い、患者に対して全く異なる視点からその処遇を検討するわけであるが、この問題が、被告人が責任能力を有するか、という論点となるのだ。

私はこの問題にも他者性のテーマが絡んで来ることになると考える。端的に言えば、DIDにおいては、自分ではなく、他者としての別人格がその罪を犯したと言わざるを得ない場合がある。私はその様な事態、つまり主人格Aさん自身には罪を犯す意図はないにもかかわらず、他者としての交代人格Cさんが違法行為を行うという事態をプロトタイプとして示した。しかしそこではAさんがCさんの行動に責任を取るべきか、つまりAさんに責任能力はあるか、という問題については棚上げしておいた。

それに先立ち、司法領域ではどのような変遷があったかについても見た。そこには歴史的な変遷があることも述べた。それは裁判所がDIDを無視していた時期があり、それから裁判所がDIDを認めて、かつ責任能力を認めた時期があり、最近ではDIDが認められて、責任能力が一部低下しているか、あるいは猶予を認められた時期に至っているということであった。そしてこの変遷の全体が、個別説からグローバル説へのシフトを意味していのであった。

さてでは精神医学的な立場をどのように取るかが、本章の最後の部分まで残した問題である。ただし本章では一つその指針を既に示した。それはAさんに責任能力(弁別制御の能力)はあるか、という論点が絞られて、AさんにCさんの制御が出来るか、という点が問題になるということである。なぜなら人格はことごとく神経症圏にあると考えられ、するとAが幼児の人格でもない限りは弁別に関しては可能であると考えるべきであるからだ。しかしここではさらに単純化させ、被告人が未成年であるならば通常は責任能力を問われないという事情を鑑み、「AさんがCさんを統御できるか」に論点を絞って考えることにしよう。

さてその上で私自身の立場を表明するとしたら、それは以下のようになる。まずはAさんがCさんをどこまで制御できるかについては、きわめてケースバイケースであり、「出来るか否か」という二者択一的な判断は不可能なのである。そしてこれは私が本書で取るような、AさんとCさんは他者同志であるという立場を十分に取ったとしても変わらない。Aさんは他者であるCさんの違法行為を全力で食い止めようと思っていても、犯行時に覚醒していなかったという場合もある。あるいは一生懸命阻止しようとしたが、今一歩のところで及ばなかったということもあるだろう。しかし「見て見ぬふりをした」という可能性も想定できる。しかしこれらを総合して考えると、Aさんに完全責任能力を認めることは本来は出来ないということである。それは何よりもCさんがAさんにとって他者であるからだ。AさんとCさんはいわば一心同体であり、つまり体を共有している。その意味ではシャム双生児の状態になぞらえることが出来る。二人をACとするならば、お互いに片割れが犯してしまった罪を一緒に償うべきかは答えの出ない問題であろう。つまり罪を償おうにも、それは罪を犯していない方にも同じような苦痛を要求することになり、それはフェアではないからだ。しかし同じような罪が起きないようにするためには二人とも無罪放免とするわけにはいかないからだ。

そこで私が主張することは、Aさんがどの様な罪に問われようとも、そこに治療的な配慮が不可欠であるということだ。