2022年4月15日金曜日

他者性の問題 68 解離は障害か? に付け足した

 LGBTQ”D”

少し極端かも知れないが、最後に差別の問題について論じよう。解離は「障害」かという問題より比較的難度の低い問題があり、それは解離性障害を有する人はマイノリティか、という問題である。これについては私はある程度明確に「Yes」と言うことが出来る。
 いわゆる社会的少数者と呼ばれる人たちは、少数派であるだけでなく弱者の立場に置かれた人たちである。その集団に属するために彼らは偏見や差別を受けることになる。もちろん精神障害を有する人たちが皆、この社会的弱者に属するかと言えばそうではないし、そこにも程度差がある。そしてそれはその障害を有する人たちだけでなく、それを論じる人達についてもある程度言える気がする。
 私は大きな書店に行くとそこにたいていはある医学書コーナーに足を向ける。大抵精神医学も一定のスペースが設けられるが、私がいつも失望するのは、「解離性障害」を扱った本がいかに少ないか、である。23冊見つけることが出来ればましな方だ。私は恐らく統合失調症と解離性障害は似たような罹患率(およそ人口の1%程度)を示すと思っているが、それにしては統合失調症を扱う書籍は膨大である。「差別ではないか?…・」と私はつい思ってしまうのであるが、これはもちろん通常いう差別とは違うこともわかっている。解離性障害は分かりにくく難しいのだ、と考えることにしている。しかし解離性障害という診断を有する患者さんはやはりかなりの偏見を受けていると感じざるを得ない。
 患者さんが学校や職場でその症状を説明して理解を示してもらうことがとても難しいという話を聞く。自分が時々違う話し方になり、その時は自分ではないのだ、そして自分はそのことを覚えていないことが多いのだ、という説明を聞かされて最初は当惑しない人などいないであろう。しかし一部の人はそれを分かろうとし、そのような前提でその人と関わっていく。しかしある一定の人々はそのことを理解せず、むしろ「そんなことはある筈がない」という、理解することとは逆の方向に向かう可能性がある。患者さんによっては「あの人は多重だから・・・・」という言い方を聞いて気持ちよく思わなかったという事をおっしゃいます。そして思ったそうです。「これは差別ではないか?」
 その時私の中でLGBTという表現が浮かんできた。皆さんはご存じであろうが、Lはレスビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシュアル、Tはトランスジェンダーを指す。性的志向に関わるマイノリティーを広く指す言葉として我が国にも浸透している。私自身はこの表現が好きかどうかはわからない。でも非常によく使われ、決してこれ自体が差別用語ではないことはわかっている。少なくとも今のところは、である。差別と言葉の問題は非常に難しい。言葉はある種のニュワンスを帯びてくる。客観的な記述のために用いる用語がいつの間にか差別用語として扱われてしまう。特に外国由来の言葉は、耳新しいだけでそのようなニュアンスが込められているかわからない。欧米人が差別用語だったらそうだと信じ、それに従うしかない。

ともかくも私はこの瞬間に解離の問題と差別の問題を初めて結びつけたことになる。そしてこの問題はこの最終章のテーマである「解離は障害か?」という問題ともつながっているのだ。セクシュアルマイノリティは「病気」や「障害」ではない。かつては同性愛が精神疾患として扱われた時代があったが、それははるか昔の話である。そして現代の同性愛者は「ゲイは病気ではない!」と主張しているわけではない。そんなことはわかり切っているのだ。しかしその前提に立ったうえで未だに根強い偏見の源は何だろうか?

もちろん答えは一つではないであろう。ただ私は最近よく考えていることがある。それは通常の常識からは理解が難しいことについての私たちの抵抗である。今のこの時代にどうして解離の研究者が少なく、数多くの誤解を持たれているのはなぜだろうか? それは私たちが直感的に理解できない人間の側面に対して尻ごみをし、分かることが出来ない対象に対してそれを排斥しようとするからではないだろうか。それが未知の心の在り方、脳の在り方を表しているのかもしれないのに、私たちの多くはそれを受け入れ、理解しようとすることにしり込みをしてしまうのである。