2022年3月1日火曜日

他者性について その 28 序論

 序論

私はこれまでに解離性障害について臨床的に関わり、またそれに関する著作を多く発表してきた。私はいつまでも解離という不思議で興味が尽きない心の現象を探求する一学徒であるにすぎないと感じている。しかし教科書的な位置づけを持つ精神医学の叢書の解離の項目の担当を依頼されることが重なっている。そしていつの間にか解離の専門家という事になってしまった。もちろんそれなりの自負はあるものの、解離の専門家になることを特に選択したという経緯もなかった。専門性というのはその様な目標を掲げて研究や臨床にまい進することでより定かなものになっていくのであろうが、私の場合あまりに偶然が重なった結果としてこの道に至ったという感じだ。

日本での精神科医としてのトレーニングを5年間受けてから渡米し、最初から精神医学を学び直すプロセスで出会ったトラウマ理論やそれに関連するケースに接することは私に日本に居続けていたら受けることがおそらくなかったであろうインパクトを与えてくれた。解離症状を示す患者さんたちとの体験は、そもそも脳について、心について私たちが知っていることはほんのわずかでしかないという事を教えてくれたと思う。私たちはこれほどまでに心のことが分かっていないという事を教えてくれる解離症状を持つ患者さんの存在は新鮮であった。

ところで私はその体験を、精神分析のトレーニングと並行して体験していた。不思議なことに、精神分析はある意味では心について分かっていることを前提とした治療法であり、理論体系である。それは基本的にはフロイトが考案した土台に乗った理論構築がなされている。しかしそこに解離性障害についての理解の仕方は書かれていない。解離性障害について知るためには、精神分析的な理論の助けを借りることは出来ず、患者さんの話を私が一つ一つ聞き取って理解していく以外になかったのである。

もちろん解離性障害についての理論は精神分析とは別個に存在している。それは精神分析を始める前のFreud の共同研究者であった Breuer Pierre Janet といった人々により基礎が築かれたのだ。そして1970年代以降、Richard Kluft, Frank Putnam, Colin Ross と言った臨床家により強力にその研究が推し進められていった。私は彼らの理論から多くを学び、賛同していたはずである。しかしこの数年間の間に、私は再び解離性障害についてよくわからなくなってきている。というよりはそれらのエキスパートたちにより描かれている解離性障害とは別のものをイメージし始めていることに気が付くのだ。

それは突き詰めて言えば、従来のDIDに関する理論には別人格の人格としての尊重が十分ではないのではないかという疑問であるが、その疑問も含めて問いただそうとしているのが本書ということになる。しかし私にはどうにも後ろめたい気持ちがぬぐえない。従来の精神分析理論や解離研究のエキスパートたちに異議を唱えるような資格は自分にあるのだろうか。

私はもう還暦をとうに過ぎ、65歳を過ぎて8年間勤めた大学を退職する年を迎えた。一昔前なら、もう寿命が尽きているはずなのに、幸い生きながらえている。私が自分の考えを伝える機会もそれほど残されていないとしたら、これもいい機会ではないかと思う。