2022年2月13日日曜日

引き続き 他者性の問題 16

  ある交代人格の意識が他者性を備えているかという問いについて考える際、問われるべきなのはそもそも意識とは何か、という事である。交代人格が他者としての意味を持つ場合、それは少なくとも統一されていなくてはならない。それは何者かの一部ではなく、独立して存在し、機能しなければならない。そのためにも意識が一つの統合体、統一体であるという事は明確に確認しておかなくてはならない。
 交代人格が一つの統合体であることを強調するのは他でもない。交代人格は部分 part ないし断片 fragment であるという議論が多くの識者により提示されているという現状があるからである。それに対する反論としては、交代人格が部分ではないことを示すことになるが、それよりも交代人格を含めた意識自体が基本的には統一体であるという事を示すことで十分であると考える。
 交代人格が一つの意識であることは臨床家として体験的に分かることだ。それは一人の人としての体験を持ち、感情を持ち、他者との差異を明確に体験し、それを情緒反応や行動により表現している点で、ごく普通の一般人と変わらない。ただそれが時間的に限られ、別の意識に交代するという事が希ならず起きるという点だけが違うのである。

意識とはあるクオリアの伴った体験を持つものと私は定義したいが、その際意識は統合されている。つまり断片的な意識、等というものはない。ここら辺はEdelman Tononi The Universe of Consciousness. の助けを借りよう。

Charles Sherrington: The Integrative Action of the Nervous System. Yale University Press, 1906.

100年以上も前にチャールズ・シェリングトンは次のようなことを言っている。「自己は統一であるthe self is a unity」と。ウィリアム・ジェームズも言っている。「意識の最大の特徴は、単一で固有であるunitary and privateという事だ」と。ある意識を持った個人と関わる時は、それは分解不可能な統一体である。体験を持つ個人individual とはその後そのものが分けるdivide ことが出来ない。もし意識活動を部分に分けるとしたら、意識的な体験はその総和以上の新たなものなのである。したがって意識活動を純粋な意味で分割することはできない。この様な考え方は近年ではBernard Baars らによるGlobal workspace theory として提示されている。