2021年11月14日日曜日

解離における他者性 44

 


 思いつくままにこんなスライドを作ってみた。大文字の解離、などと言うと必ず、ラカンの大文字の他者と結びつけられるからである。結論から言えば、これは無関係というわけではない。ラカンにおいては(よく知らないけれど)他者の概念は重要で、とにかく徹底しているという印象を受ける。
 小文字の他者とは結局は自分の中に投影されたもの、私の考えでは内的他者像のようなものに思える。その他者像は自分を満たしてくれる、好都合なイメージでしかない。それをラカンは「欲望の原因」、ないしは乳房などと呼んだのだ。結局それは自分の内部にあるイメージでしかない。ところが大文字の他者は完全に自分の外部であり、それ自体が確固とした構造を持っていて、当然ながら自律性を持っている。自分の手に負えないものだ。これはシニフィアンの世界であり、そのシニフィアンそのものに意味はない(意味とは「シニフィエ」の方だ)。
この構図から明らかなように自分自身も脳という構造を持っている。という事は自分は大文字の他者をも備えているという事になる。
 さて小文字の解離は丁度小文字の他者との関係と言える。それはあくまでも自分の中にある対象像との関係である。これは精神分析で使っている解離の意味するところである。ところが大文字の解離はまさに他者であり、それが自分の中に存在する。しかしもちろん異なる神経ネットワークを基盤にしていると考えるしかない。それが異なるダイナミックコア、という考え方である。