2021年11月11日木曜日

解離における他者性 41

 さてBromberg は論文の最後にこう言っている。ちょっと直訳してみよう。
「あるパーソナリティ障害を抱えた人は、そしてすべての患者においてそのパーソナリティの一部に関しては、それが徹底した精神分析的作業となるためには、その葛藤を扱う際に、解離の過程がその本質部分を占めるであろうということである。「転移を扱う」ということは本来的に「解離を扱う」ということなのだ。なぜなら解離は本来的に患者と治療者における解離の過程のエナクトメントだからである。転移も逆転移も端的にエナクトの一側面であり、二者関係の解離的な繭だからである。彼らが「定式化されていない unformulated 」体験を表現することで、彼らはそれを言葉にすることが出来る。しかしそれが出来るためには、治療者は自分の解離された部分を理解しなくてはならない。そして解離された部分を言葉に出来ることにより、解離をワークすることは、葛藤をワークすることにシフトしていく。」 そしてBromberg はこれがいわゆるボストン変化プロジェクトの考え方にも近く、治療関係は治療者患者の間のエナクメントであり、お互いに解離された部分のダイアローグである、という言い方をしている。治療はそれを通してこれまで not me でしかなかった部分が me になっていくというのだ。
 結局こういう言い方が出来るだろうか。精神分析においては解離はやはり病的なプロセスであり、それは本来統合されるべきものがされていないことであり、それはトラウマにより生じた一種の防衛手段を、先回りして用いるようになるというプロセスであるという。やはりここには解離を通して人格が複数生まれるというような話とはおよそ関係がないレベルの議論と言えるのだ。