精神分析における大文字の解離理論
最後に精神分析における解離理論のあるべき姿について論じ、Dissociation (大文字の解離)の概念を提示したい。解離に関する理論モデルに関する van der Hartの分類を思い起こそう。タイプ2. は「同時に生じる、別個の、あるいはスプリットオフされた精神的な組織、パーソナリティ、ないしは意識の流れの成立」と定義されるものだった。そして過去の精神分析においては、Breuer と初期のFreud により提案された以外には、Ferenczi にその可能性が見いだされるだけであった。現在の精神分析においては、依然として心が一つであるという前提は不動のものであり、タイプ2.という心のとらえ方は、その理論基盤においては存在しえないのである。そして精神分析における新しい解離理論として注目されているStern や Brombergも、結局は心は一つ、という図式に留まっている。ところが彼らにより解離という現象が精神分析においても正式に扱われるようになっているという誤解を招きやすいのである。というかその様に思う分析家が圧倒的に多いのではないだろうか。
ここで私はDissociation(大文字の解離)という概念を提示したい。その大枠はvan der Hartのタイプ2.として示されたものである。それなら新しい用語などを作らずに、「van der Hartのタイプ2の解離」とすればいいという意見もあるかもしれない。そのような意見に対する説明は少し後に譲るとして、まず正確を期すために次の点を強調しておきたい。
私が強調したいのは、Dissociation
においては複数の主体が「共意識状態co-consciousで」存在しうるという点である。これはわかりやすく言えば、二人の「自分」が同時に目覚めているという事だ。もちろんそこに二人の人間がいれば、当然そうなる。二人の人間がそれぞれ自分を有しているからだ。ところがそれが一つの体、一つの脳を持った人間に生じることが解離の特徴でもあり、まだこの上もなく不思議な点でもある。
もちろん本書ですでに見てきたとおり、たとえ意識Aと意識Bが存在していたとしても、フロイトが描いたような「振動仮説」に従えば、各瞬間にどちらか一方が覚醒している間他方は眠っていてもいいことになり、そのような二つの意識のあり方は「連鎖的 consecutive」ないしは「連接的
sequential」とでも表現できるものとなる。しかしDIDにおいてはこれらの形とは異なり、意識AとBは同時に覚醒していることが大きな特徴であることは確かである。
しかしすでに本書で見てきたとおり、人の心は時に「スプリッティング」を起こす。心が二つに分かれ、ある時にはAという事を、また別の時はBという事を主張し、それらが矛盾しているという事がある。その時の一つの仮説としては、一つの心が二つの別の状態を交互に取るという現象である。
その一つの例としては、いわゆるボーダーラインパーソナリティにおいて典型的な形で見られるスプリッティングである。そこでは例えばある日は治療者を理想化し、翌日には徹底的にこき下ろすといったことが起き、あたかも治療者に対する二つの対象イメージが矛盾した形で存在しているかのごとく感じさせる。しかしこのような状態で特徴的なのは、その矛盾した対象イメージに対して本人に問うても、そこに不思議さを当人は覚えていないという事である。「昨日は自分はそう思った、でも今の私は先生に対して全く違った気持ちを持っている」という言い方をするであろう。つまりスプリッティングといっても、それは対象イメージに起きていることであり、心の全体が分かれているという事ではない。
ところが解離の場合は全く異なることが生じる。おそらく患者は同様の事態に関して、次のようなことを言うはずだ。「残念ながら先生を理想化したその様な言い方をした覚えが全くないのです・・・。」つまりAという言葉を発した心とBという言葉を発した心が連続していないという事になる。
この図において円は心を表す。その心はAとBという二つの人格によってスプリットされている。そして人格A が出ている場合には左の図に示されるような現象が、Bが出ている場合には右の図に示されるような現象が起きている。