この2の反応をする臨床家は、DIDに懐疑的であるというわけではないであろう。DIDがDSM-5にもICD-11にも記載されている以上、その存在を否定するわけにはいかない。また自分もその実例を見たことがあると言うかもしれない。そして自分はDIDについて懐疑的であるわけではなく、典型的なDIDの臨床症状に関しても実際に目にしたことがあるというスタンスを取りつつ、自分が今関わっているケースに関しては、「それは演技である」、あるいは、その時点で示しているものは「詐病である」という言い方をする。この方がその主張にはより信憑性が増すことになる。何しろ精神医学の専門家が語っていることになるからだ。少なくともDIDの存在を頭から信じない医師よりはもっともらしさが伴うことになる。
さて3.の「特別な対応をせず、そのまま気が付かないことにして流してしまう。」は、実は一番多いかもしれない。これはいつそれが起きているのかが確かめられないという点で厄介である。例えば臨床場面で、途中から少し様子が変わったような気がする。声のトーンや身振り手振りがいつものAさんのものとは異なっているようだ。臨床家はAさんの過去の治療歴に解離性障害の文字を見た気がするが、今起きていることが人格の交代なのかは不明である。臨床家はそれを確かめようかとも思う。しかしこの時臨床家に聞こえてくるのは、いつか、どこかで聞いたことのある次のような言葉だ。「別人格そそれとして扱うと、定着してしまう」。この様にして交代人格は出現しても多くの場合、スルーされてしまう運命にある。
ここで「否認 Denial」という防衛機制について書いておきたい。精神医学のテキストには次のように書いてあるだろう。「防衛機制の一つで、受け入ることがあまりにも困難な事態に直面した際に、明らかな証拠が存在するにも関わらず、それを真実だと認めるのを拒否すること。」
ところがDIDの方々の家族となると話は全く違ってくる。彼らは恐らく1~3までを最初は通過するであろう。しかしそれではやっていけないことがすぐにわかるのだ。最初は元の人格の名前を何度も読んだり、何とか説得を試みたり、「おかしな演技をしないでちょうだい」と言ったりするかもしれない。しかしそれで元の人格にたまたま戻ることはあっても、再び人格交代を体験することになる。しかし結果として彼らは当事者の人格が交代した際に、かなり早い時期から、それを異なる人格、あるいは人間として扱う様である。そうしないと関われないことを、早くから学習するからであろう。
私はある時DIDの母親が目の前で交代した時の娘の反応を目の当たりにしたことがある。その母親は自分自身が幼い子供のように不思議そうに娘の目をのぞき込んだ。娘は最初は戸惑っていましたが、やがて母親をしっかり見つめ、しっかり手を握ってあげていました。小さな妹をあやすような感じである。つまり6歳の子供が、子供の人格に代わった母親を、怯えた子供として扱っていたのである。