フェレンチだけは違っていた
「精神分析のなかで分析家は、幼児的なものへの退行についてあれこれ語りますが、そのうちどれほどが正しいか自分自身はっきりとした確信があるわけではありません。人格の分裂ということを言いますが、その分裂の深さを十分見定めているようには思えません。私たち分析家は、強直性発作を起こしている患者に対してもいつもの教育的で冷静な態度で接しますが、そうして患者とつながる最後の糸を断ち切ってしまいます。患者はトランス状態のなかでまさしく本当の子どもなのです。」
つまり子供の人格に代わったら、難しい解釈などはせずに、子供の人格に会いなさいということをフェレンチは言っているのだ。ところがこの論文はフロイトとの決定的な意見の対立を表す論文でもある。
ところが現代の精神分析においても、フェレンチのような考え方はまれで、結局はフロイトが考えたのとまさしく同じようなことが起きている。それをもっと極端にしたのが、先ほど杉山先生が書いておられた、交代人格を認めないという立場なのだ。
ところで私は数年前に分析家の集まりで解離性障害について話したことがある。そのとき話題になっていたのは、セッション中に子供の人格が出てきたらどのように対応するか、というまさにその問題だったのであるが、その時に私の発表の後に、あるもうお亡くなりになったある高名な分析家の先生がおっしゃったことを今でもはっきり覚えている。
「私は子供の人格が出てきても、子供として扱わず、なぜ子供の言葉で話すことを考えたのかについて患者さんに問いかけます」。そしてそれに対して誰からの反論もなかったのだ。そしてその会は終わってしまった。私はこれが精神分析の答えなのだと思っている。
そしてこの交代人格を一人の人間として認めないという態度は、とくに精神分析家には限らないということは重要だ。一般の臨床家にもみられるであろうし、患者さんを取り巻く家族にもみられることだ。そしてそこで主として主張されるのは「交代人格の存在には意味があり、それはその人が抑えていた願望を表現しているのだ」ということである。