アメリカはナル社会
昨日「アメリカはナル社会」という事を断りなしに書いたが、そのことを書かなくてはならない。「アメリカはナルシシスト(自己愛者)の社会である」という時、私はアメリカ人は皆傲慢で鼻持ちならないという事を言おうとしているのではない。アメリカ社会では、人は自分が何を強さや特技として持っているのか、どのような主張を持っているのかなどについて表に出して生きているという様な意味だ。
昨日は「矛の柄」の話が出たが、皆自分の矛の柄の長さを外部に示すのがアメリカでのルールだ。ナル社会とはその様な社会であると私は言っているのである。ナルシシズムは文化を超えてすべての人が持っている。「俺ってイケてる」という気持ちは皆持っているのだが、イケていると思う根拠を皆が周囲に示し、ある意味ではお互いにある程度はそれを納得しているのである。
この様に書くと、それって自然界と同じではないか、という事になる。たしかに鹿は角の立派さを競い、鳥は囀りの声を競う。カブトムシなら角の大きさや強さを競う。それは弱肉強食の世界では当たり前のことだ。よく「ジャングルの掟」という言い方をするが、ジャングルでは強いものが弱いものを捕食する。あるいは弱いものは自然と死に絶えていく。もちろん単なる力の強さだけではない。うまく擬態を使って天敵から身を護るという技量も「強さ」の一つである。ともかくも、アメリカ社会の単純明快さは、この弱肉強食のルールの明快さに通じているのだ。
自らの力を表に表すことはジャングルに生きる生命体にとって一つの重要な意味がある。おそらく「矛の柄」の長さを明らかにすることで、無用な争いは避けられるであろう。動物や昆虫は、自分が戦って勝ち目がない天敵からは身を守り、安全な場所に身を隠す。毒々しいキノコには警戒し、それに手を出さないことで生き延びていく。
さてこのようなナル社会で生まれ、その中で生き抜くこと、叩き上げられることは、比較的単純な規則に従う事を意味する。強いものには屈し、弱きものにはその上に立つ。要するに矛の柄の長さに応じて生きていくことになる。大抵は矛の柄は成長に従って自然と伸びていく。明らかに相手が上ならば、ひれ伏し、迎合する。相手が下なら逆である。段々長くなるに従い、諂う相手は減っていき、支配する人は増えていく。それを徐々に体験していくのだ。すると争いが起きるのは丁度同じくらいの矛の柄の長さを持つ者同士という事になる。「こちらの方が長いから相手は自分を強者として遇するはずだ。しかしそうならずに逆にこちらを従わせようとする。ケシカラン!」 そこで両者は一戦を交えることになる。
自然界でその戦いが生じる時、動物たちは恐らく「怒って」いるはずだ。自分が備えている中枢神経系の一部が興奮し、覚醒度と注意力が増し、血流が筋肉に充満し戦うのに最適になる条件を「怒り」は生む。もちろんボクシングの試合中の選手のように、戦いが終わったら抱き合う様子からも、彼らは「怒って」はいないだろう。しかし動物の場合はどちらかが白旗を上げることでゴングが鳴らされるまでは、相手を殺すつもりで戦っているのであろうし、そこには「怒り」というトリガーがどうしても必要になる。この様に考えると自己愛憤怒は実は自然界における弱肉強食の争いを見事にカバーしているとは言えないだろうか。
さてここでアメリカ人の問題だ。私の印象では弱肉強食の掟が徹底しているために、無用な「自己愛憤怒」が起きる余地もそれだけ少ないと感じる。無用なつばぜり合いや意地の張り合いはむしろ日本社会に多いのではないか。日本社会はアメリカのような弱肉強食ではない。ある意味では平和な社会である。
この間竹田恒泰チャンネルで竹田先生が日本の建国についてお話しになっていたが、2671年前に日本が建国されて以来皇室が125代も続いているという事が世界で他に類を見なく、しかもそもそもの国づくりが戦争ではなく、豪族たちの間の話し合いで行なわれたことが例外的であるという。もちろん日本でも戦国時代のように群雄割拠の時期を経てはいるが、そもそもがお互いに妥協して平和的な解決策を講じる傾向にあるのが日本社会である。
しかしそれは矛の柄の長さにこだわらない、というかそれをあからさまにしないという傾向とも関連し、雌雄を決しないで共存するという傾向を生む。それがどういうことかと言えば、ちょっとしたつばぜり合いがいたるところで生じるという事でもある。そしてそこでは自分の矛の柄の長さを自覚しない者同士の「自己愛憤怒」のぶつかり合いという事になるのだ。