私たちは、生命を維持するうえで極めて重要な原則に従っている。それは快を伴う報酬を希求し、不快を起こすような嫌悪刺激を回避する傾向である。私たちは生命維持にとって必須な食料や安全な環境は快と感じて追い求め、生命の維持を危うくするような危険や侵襲は嫌悪刺激として回避することで生存の可能性を高めるのだ。フロイトはこれらを「快原則」と「不快原則」と名付けたことはよく知られるが、この原則は精神分析理論を超えて普遍的な妥当性を持つように思われる。
本稿では特に嫌悪aversionについての精神病理学的な理解を試みるが、現代の心理学や脳科学が示すのは、快ないし報酬rewardと不快ないし嫌悪は深い関連性を有し、両者を切り離すことができないということである。そしてそこに快が嫌悪の病理につながるようなメカニズムの存在も解明されつつあるのである。
嫌悪と報酬の性質を理解するうえで、近年の脳科学的な研究はきわめて重要な手掛かりを与えてくれる。そしてその端緒となったのが1953年のオールズとミルナーによる報酬系の発見であった。彼らはラットの脳に電極を刺し、スイッチとなるレバーをラット自身が押すことで自己刺激を行わせる実験を行った。そしてたまたまある部位に電極が刺されると、ラットは狂ったように、それこそ食事も忘れてレバーを押し続けることが分かった。それが中脳の腹側被蓋野、側坐核、内側前脳束、中核、視床、視床下部の領域からなる部位で、後に「報酬系」ないしは「快感中枢」と呼ばれるようになった部位である。
脳のある部位を電気刺激すると著しい快感が得られるという彼らの発見は、当時は大きな議論を呼び起こしたという。興味深いことに当時は、脳の刺激は常に嫌悪を生み出すという考えが支配的であったという(リンデン、p19)。脳のいたるところがいわば「嫌悪中枢」である一方では、報酬系や快感中枢の存在は想定されていなかったということになる。快楽はいわば不快を回避することで間接的に得られるものとしか考えられていなかったのだ。それはどうしてだろうか?
一つ考えられるのは、人類はこれまで深刻な不快や痛みに常に直面していたからであるという可能性だ。私たちの祖先は自然や人災がもたらすあらゆる苦痛に翻弄され、麻酔も鎮痛薬もない状態で耐え忍んだ。一方で人類は強烈な快感を味わう機会には恵まれていなかった。すべを従来は持たなかったのだ。古代人にとって考えられる限りの大きな快楽や享楽といっても、せいぜい飢餓状態に置かれた後の飽食、性的なエクスタシー、あるいは特別の機会に限られた飲酒程度だったのであろう。だから古代人はもっぱら苦痛を回避することに腐心し、快原則はいわば不快原則に従属的にならざるを得なかったのだ。
ところが近代になり科学技術の高まりとともに生産性が上がり、人々の暮らしは急に豊かになった。そして口当たりの良い食糧品やアルコール飲料は安価でほとんどいくらでも手に入る世の中になった。また純度の高いモルヒネやアンフェタミン、コカイン、大麻成分などを精製できるようになった。これらの薬物は人類がこれまで経験したことのない強烈な快感を体験させてくれる。純度の高い依存物質を、静脈注射や肺からの吸入によりきわめて急速に摂取することによる快感は、オールズとミルナーのネズミがレバーを夢中になって連打した時のような至福の体験に匹敵するだろう。さらに現在の私たちの身の回りにはギャンブルやゲームなどの報酬系を手軽に刺激できるような手段にあふれているのだ。