この文章は、一見極端で意味が通じにくいが、誰かに「ありがとう」という事には気恥ずかしさが伴うことは確かだ。そしてこのVivesのいう恥を「負い目」と読み替えるのであれば意味が通じる。他人から何かをしてもらうことで恩恵を被るという事は、自分の中の不足な部分、至らない部分を認めることになる。目の前に食べ物を差し出されて心から「有難う!」と言えるとしたら、その人はお腹が空いていることになる。その意味で自分の弱さ needinessを認めることになる。西欧人はこれを認めることを良しとしないという事になる。
土居は欧米の母子関係において、甘えという概念や言葉を欠いていることを「文化的条件付け」と言い換えているが、それにより欧米人は「甘えによる交流」を日本の母子関係ほどスムーズに行えないという。つまり「愛して欲しい、という形での愛」を感じることに欧米人は非常に鈍感であるともいう。しかし土居はまた甘えがフェレンチやバリントの「受身的対象愛」と同等なものと述べ、それが日本文化に独特のものであることは否定してもいる。
土居はこのように述べるときに西欧の鈍感さというネガティブな側面について論じているという印象を与えるが、逆に日本人の在り方をネガティブに表現してもいる。たとえば日本人は「結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとしている」「西洋的自由の観念は甘えの否定の上に成り立っている」という言い方をして、あたかも日本人が対人関係に甘えを持ち込むことで個の独立が阻まれていると言っているようである。
ただしおそらく土居が言っている「個が独立せず、甘えている日本人」というのは、西欧的な意味での個の独立、という事なのだろう。すなわち日本人は日本社会ではそれなりにこの独立を成し遂げていると考えるべきである。
西欧では幼い子はあまり自分のニーズを汲んでもらえないという体験を持つであろう。そして自分がして欲しいことを表明するようになる一方では他者に先回りして欲求を満たしてもらうという期待をあまり持たなくなるだろう。そしてこのことは、自分も他者の要求を知る努力をあまりしない、という事になる。非常にドライでそっけなく、しかし分かりやすい対人関係がそこに成立するわけだ。それと比較して、日本での「個」なら相手のニーズをある程度先取りして満たすと同時に自分のニーズも先取りして満たしてもらうことを期待する(つまり甘える)。つまりこのギブアンドテイクの人間関係の中で生きていくのが、日本における「個」の在り方だ。そしてそのような「個」の在り方とは違うタイプの「個」の在り方が成り立っている社会に属することになれば、当然カルチャーショックを起こすことになる。自分は甘ったれていたんだ、となるだろう。でもそこから日本人は外国人対する態度を変えることで適応していくのが普通だ。
このように考えると土居先生の議論は一貫しているのだ。日本人は西洋における個の独立は達成していなくても、おそらくそれはまだその文化に適応していないだけであり、やがて英語と日本語を使い分けるようにして両文化でそれぞれうまくやっていくのであろう。とすると「日本型」として発信すべきは甘えの感受性の高さについて肯定的な意味付けを行うと同時に、西洋における個の独立に備える必要があるという事を主張することにとどめるべきなのだろう。
結局日本人と西欧人は、生まれ持って他者の甘えニーズに対する敏感さに違いを持っているのかどうか、という問題については土居は明言していないことになる。