2021年6月4日金曜日

嫌悪 5

不快の解消は快なのか?

 不快や苦痛の問題でいつも私を悩ませるテーマがある。それは不快の解消がどうして快なのか、という事だ。これは「快楽原則」(人は本来的に快を追求する)と「不快原則」(人は本来的に不快を回避する)との関係性の問題と言ってもいい。
 最近USBメモリーを一つダメにした。もちろんある程度バックアップは取っていたが、ある朝突然USBが読み取り不可能になり、目の前から膨大なデータが消えた。トラウマである。そして一週間たち、その傷がいえ、いろいろなところからそこに入っていたはずのデータをかき集め、なくした文章は書きなおし、ある程度トラウマから立ち直ることが出来た。そのUSBに入っていたデータがなくなった際、それが出てきたらさぞかし嬉しいだろうと思った。持っていた時はありがたみを実感していなかったものがなくなると、著しく苦痛に感じ、それを回復した際には喜びが生まれる。この回復の際の喜びは、失った際の苦痛の積分値と同等という事になるが、それは何かを純粋に獲得した際のものと同じなのか?
 これはさらに単純化するならば、宝くじで突然降ってきた100万円と、もうすっかり取り戻すことをあきらめていた100万円入りの財布が出てきたときの喜びは同等か、という事になる。答えはもうわかりきっているように思われる。同等なのである。でもなぜ苦痛や不安の除去が快になるのだろう?
 こうして思考実験をしていると、私はちょうど1983年の春に考えていたことと同じ段階に戻る。私は26歳だったが、この「不快の積分値が快になる」ことの意味が解らずに延々と原稿用紙に文章を書きつられていたのだ(当時、ワープロはまだなかった。私が発売された第一号のワープロ(ワードバンクという名前だった気がする)を購入したのはセイコーエプソン製で、1985年の暮れだった。)今の私は当時よりは多少物知りになっているが、この本質的な問題についてのヒントを得られるような理論には出会っていない。ただ恐らく精神分析の理論で一番近いのが喪の理論であるという事はわかる。
 フロイトは対象を喪失した際の心の痛みを喪mourning とよんだ。失ったものを悼むという期間を過ぎると苦痛が和らいでいく。そして何が起きるかというと、それが内在化されるのだ、と考えたのだ。喪は苦痛なプロセスだが、彼はそれを一挙に終わらせてしまうことはできないと考えた。それはそうだ。何かをなくすと、それを一瞬の苦しみで忘れられることは普通はない。おそらく記憶にまつわる何かが生じて、そして時間がかかるという事はタンパク合成が関与していることになる。とするとこれは記憶の改変という事だろうか。
 私たち夫婦は、愛犬チビを失った。十年前のことである。その頃はチビに関する記憶をたくさん持っていた。そこにはチビが生きているという感覚がつながっていた。例えばチビの毛をすくブラシが転がっている。それを見るとチビの表象が浮かんできて、それが「でもあのチビはもういない」という認知と結びつかなくてはならなくなる。このことをチビに関する記憶やチビを思い出させる写真その他のすべてにおいて行う。これは記憶全体の改変であり、そのたびに痛みを伴う。そう、少なくとも精神的な苦痛には記憶のメカニズムが関係しているのだ。