2021年5月13日木曜日

母子関係の2タイプ 推敲 3

1. 日本における子育てと「甘え」
 日本ないしはアジアにおける子育てを欧米型との対比で論じることはすでに多くなされている。キリスト教においては子供は悪魔であり、厳しいしつけが必要であるという考えが一般的である(Jolivet, 2005)一方で、アジアでは子供は天使であるという見方が多い(Chao and Tseng 2002)とされる。本論文の冒頭に紹介したベネディクトの文章にも表れているが、おそらく多くの西洋人にとって、日本の子育ては甘やかし overindulge と思われるであろう(Okano, 2019.) そしてその一方で父親の影は薄いとされる(Shwalb, et al, 2004)
Shwalb, D. W., Nakazawa, J., Yamamoto, T., & Hyun,J.-H. (2004). Fathering in Japanese, Chinese, and Korean Cultures: A Review of the Research Literature In M. E. Lamb Ed.), The role of the father in child development (pp. 146–181).

 私の研究分野である精神分析では、土居の「甘え」は一つの鍵概念として扱われる。甘えは「甘える」という動詞の名詞形であり、「甘える」とは「他者のやさしさに頼ってそれを前提とすること to depend and presume upon another's benevolence’.」 (Skelton,R.(Ed.).2006. The Edinburgh International Encyclopedia of Psychoanalysis).などと表現される。この用語は土居により1950年代に導入された。これは日本人の対人関係を描くために導入されたが、無意識的には文化を超えて起きているものであると考えられた。土居によれば、甘え、すなわち愛されることに進んで浴することは治療の初期からみられ、転移の核になるものであると考えた。彼は健全な形の甘えとその結果としての成熟した依存関係が極めて大切であると考えた。
 土居の甘えの概念は海外に大きなインパクトを与えた。西欧においては分離個体化による自己の達成こそがその個人の成熟と見なされる傾向にあったからだ。精神分析においては、子供の独立はエディプス的な状況で醸成、促進される。そこでは懲罰的な父親が息子が母親と親密になることを阻止する。父親に向けられた敵意は去勢不安を引き起こすが、それは母親に対する欲望の結果として自分が去勢されてしまうのではないかという恐れである。その不安と対処するために、息子は父親と同一化し、母親への願望を他の女性への願望に置き換える。しかしこの理論は日本の場合にはあまり当てはまらないことが多い。なぜなら甘えに基づいた母子の緊密な関係性は社会で受容されているからだ。私はかつてある論文で次のような記述をした。
 「日本の家庭内では、子供は父親ともとても近い関係にある。しかし母親との関係ほど親密ではない。子供は西洋の家族とは異なり、両親と一緒の寝室で寝ることが多い。日本の父親の注意は職場に向けられることが多く、夕刻や週末の時間は会社のために割かれることが多い。ある意味では日本の息子は、さほど去勢不安を刺激されることなく母親の注意をひくことが出来るのである。このように彼らの去勢不安はかなり軽減されているはずだが、だからと言ってエディプス的な父親が日本の家族には見いだせないという意味ではない。伝統的な日本の家父長は子供に厳しく、母親の甘やかしとバランスを取っているという所もあった。しかし日本の父親はさほど母親を独占するという傾向はない。日本の両親は子供の両側に寝ることで子供は両方から守られているという気持ちを持つ。父親によっては、子供が母親と近いことはうれしいものの、自分だけ仲間外れにされたという気持ちを持つかもしれない。ともかくも日本の父親はさほど去勢的ではないわけだが、彼らは仕事場や共同体の中で彼ら自身が去勢不安を感じているという可能性がある。彼らはそこで職場に対する忠誠を要求されているからだ。」
 すでに述べたように、日本社会における懲罰的な力は家の中における父親的な存在ではない。それは個人が所属している団体だったりするのだ。日本社会では、目立つことはそれが社会をかき乱すという意味で目を付けられる。共通の利益にとって最も大切なのは、平和と強調なのである。人は他者と同じようにすることに努力を傾けることで排除されずに済むのだ。エディプスの話では、タブーなのは父親に対する敵意である。しかし日本社会では、それを統率している不文律に挑戦することなのである。