私はCPTSD(複雑性PTSD)という概念にはそれなりに思い入れがある。ずいぶん前から精神医学の診断の一つとして提案されてきた概念だ。それは事実上はジューディス・ハーマンにより提案された。彼女が1992年の著書 ”Trauma and Recovery” (Herman, 1992, 邦訳「トラウマと回復」この概念を打ち出したのであるが、そのころ米国にいた私は、この著書が周囲の臨床家にかなり熱狂的に迎えられたことを記憶している。
私は今回ICD-11 にこれが所収される運びになっていることをとてもうれしく思う。私はCPTSDも、そしてそれ以外のいかなる診断名についても、それがラベリングであるという事はわきまえているつもりである。そしてその上で言えば、CPTSDというラベリングはある一群の人々の持つ特徴を表す際に非常に有用である。そしてそれは私が特に解離性障害について扱うことが多いからかもしれない。それはどのような意味においてであろうか。
CPTSDは間違いなくトラウマ関連疾患であるが、従来のトラウマ関連疾患には一つの問題があった。それは一つにカテゴライズされずにバラバラに存在していたという事情である。PTSDはかつてはDSMの中では「不安障害」の一つにカテゴライズされていたものであり、それはASD(急性ストレス障害)といういわば弟分を伴っていた。そしてもう一つは解離性障害に属する一連の障害があった。そしてさらに身体症状群に属する一連の障害があった。以前は転換性障害と呼ばれていたものである。そして少なくとも米国の精神医学会では、PTSD陣営と解離陣営は何となく綱引き状態にあった。仮に「PTSD派」「解離派」と呼ぶならば、「PTSD派」の先生方は、「こちらこそがトラウマ性の精神障害の由緒正しい疾患である」という自負があっただろう。何しろPTSDの筆頭として挙げられていた戦争神経症の症状群を想定して作られたのが、PTSDの診断基準だったからである。それに対して「解離派」は、「解離」こそがトラウマに対する心的な反応のひとつのプロトタイプであり、自分たちはそれを扱っているのだ、という自負があった。もちろんPTSD派の自負もわかるが、「そもそもPTSDの症状は、フラッシュバックも、鈍麻反応も、結局はある種の解離性の反応ですよ。」と彼らは言いたかったであろう。そしてこの両者は結局は折り合いがつかない運命にあるのだろう。何しろPTSDは「トラウマが生じた後に起きている状態」という記述名であり、解離性障害は心の機能が分かれてしまっている状態、という症状名に由来する。つまり一つの状態に二つの切り口から診断を当てはめるわけであり、一人の患者が両方の基準を満たしてもいいのである。いわば同じ「トラウマ関連障害」に属するのだ。
このように考えると両陣営の「綱引き」は実に不思議な現象と言えるが、これは解離という現象に独特な事情があるのかもしれない。解離はそれを扱うことを臨床家に躊躇させるような何かがある。PTSDの治療にはプロトコールがあり、それを裏付けるような生物学的なメカニズムが明らかになりつつある。少なくともフラッシュバック、過覚醒症状などは脳生理学的な現象として検証することができる。そしてその治療手段としての暴露療法などもいわば認知行動療法の一つとしてプロトコール化することが可能であろう。そしてそれは精神科医の持つ理系心を刺激するのであろう。ところが解離現象はそれが極めて主観的な訴えであり、しかも治療の対象とすべき患者自身がそれを否認したり隠したりする可能性がある。それと関係してか、解離症状や転換症状には、それが詐病ではないかという疑いがかけられやすい。それもあってか解離に興味がある、と積極的に仰る精神科医はPTSDに比べてかなり少ないという印象を受ける。
さてありがたいことにこの両陣営には現在歩み寄りが見られている。そこにはいくつかの原因があるが、その一つはDSM-5におけるPTSDの「解離タイプ」が掲げられたことに明らかである。これはPTSD研究により、患者の示す生理学的な所見に二つの異なるタイプが提唱されたという事情があり、そこにはポージス先生の「ポリベイガル理論」が大きく一役買っている。影響している。そしてもう一つが、ICD-11の草案におけるCPTSDの掲載であった。CPTSDには幼少時からの繰り返される外傷体験が前提となる。(ICD-11による定義は必ずしもそれは明らかではないことは不思議である。長期の捕虜体験などが筆頭に上がってくるからだ。)そして幼少時のトラウマに必然的に関連してくる解離はそこに最初から組み込まれていることになるからだ。
基本的には私はCPTSDがICDに掲載されることに賛成である。歓迎すべきことは、この概念のCPTSDの登場が大きな波紋を呼んでいるということだ。誤解を生むかもしれないが、この概念はある一つのマーケットを作った。CPTSDの特集が組まれる。それに関する論文が書かれ、リサーチがなされる。自分はCPTSDに該当するのか、という当事者の方々の関心を集めるだろう。そうして人々はこのことで議論をし、関連する問題、例えばBPDやトラウマに関する興味や関心を掻き立てたことは間違いない。そして当然ながらCPTSDの賛成派と反対派が何となく出来上がり、活発な議論を交わすことにもなろう。私はこのCPTSDが開拓したマーケットは有益なものであると考える。それが様々な問題への関心を深め、問われるべき問いを洗い出す限りにおいて意義があると思う。それらを具体的に述べて終わりにしよう。
まずは順不同に。
長期のトラウマにより引き起こされる精神の障害と言うものの存在がより明らかにされた。
ハーマンの言うCPTSDは結局BPDだ、という議論に関する是非がさらに問い直されるきっかけとなった。
私はこれから起きることは、あの人もこの人もCPTSDだ、という議論であり、いわゆるオーバーダイアグノーシス(過剰診断)である。そしてそれは揺り戻しに会い、「何もかもCPTSDというのはいかがなものか?」という議論が生まれることで、CPTSDという診断が下ることでよりよく理解され、治療を得られる機会が生まれるような一群の人々が残ればいい。
このことはちょうど「発達障害」で起きていることである。様々なケース検討の場で思うのは、かなりの頻度で「でもこの方、発達の問題もありそうだね」という意見に出会い、確かにそのことでケースの理解が一歩進む(ような気がする)という実感を体験するということである。そして発達障害について指摘する人たちの中には、「男性はある意味で程度の差こそあれ皆発達の問題がある」(私のことであった!)という人もいて、一部の人々からはひんしゅくを買い、より適切な診断が付けられるようになるだろう。