この「儚さ」の論文をフロイトの事実上死すべき運命mortality についての議論あるとみなすという立場は Irwin Hoffman (1998) により明確に示された。Hoffman は精神分析の文脈で死生観の問題について他に類を見ないほどに透徹した議論を展開している(「精神分析過程における儀式と自発性 Ritual and Spontaneity」(Hoffman, 1998)の第1、および第2章)。
ホフマンによればフロイトはその理論の変遷の中のいくつかの文脈で死について論じているものの、そこに首尾一貫した死生論は見いだせないという。それらの文脈とは1.局所論的モデルからの観点、2 死の欲動の観点、3.構造論的観点、4「無常について」に見られる「実存的」観点である。
このうち1、については、ホフマンはすでにみたフロイトの有名な「無意識は不死を信じている」という「戦争と死に関する時評」(1915)の言葉を挙げ、これが多くの反論や誤解を招いた点を指摘する。死は決して人が想像できるものではないからだというのがフロイトが示した根拠であるが、フロイトはまた「ナルシシズム入門」(4)で「死すべき運命は人の自己愛にとって最大の傷つきともなる」という主張も行なっている。ここで自分が想像することが出来ない死を、しかし自己愛に対する最大の傷つきと考えるのはなぜか、ということがフロイトの議論の中での大きな矛盾点である、とホフマンは主張する。またこの考えはフロイトの「無意識は無時間的である」という提言と矛盾するという。時間性が欠如するという点については、「不死」つまり未来永劫生き続ける、ということも想像できないはずだからだ。
ホフマンは結論として、結局無意識は死すべき運命も、不死についても、両方を含みうるのではないかという(p,79)。そしてホフマンは、結局フロイトの「無意識は不死を信じている」という主張の逆こそが真なのであり、無意識に追いやられるのは、死すべき運命の自覚であるという。つまり人は「自分はいずれ死ぬのだ」という考えこそを抑圧しながら生きているというわけだ。それにもかかわらず精神分析の世界では死に関するフロイトの矛盾した主張が延々と継承されてきたということを遺憾とする。
人が有限性に直面した時に生じる価値の問題について扱うという実存的な姿勢は、フロイトの「儚さ」に確かに見られるが、それによってフロイトは実存主義を超えた、ということはとてもできないとホフマンは言う。そしてフロイトは儚さや対象の有限性について二つの態度を分けてはいる。一つは詩人に見られる姿勢、すなわち美がいずれ消えてしまうということを認識することが物事の価値を奪うという事への恐れであり、もう一つは美が儚いことで価値や美しさを得るという認識である。これは私たちがすでにみた主張1、主張2に対応するということになろうが、しかし現実にはこの二つの可能性の両面が相矛盾する形で存在するという実存的な体験の在り方をとらえてはいない。
この相矛盾するフロイトの立場を統合するうえでホフマンが提起するのが、弁証法的構成主義である。その理論によれば、私たちの体験は儀式的な相と自発的な相との弁証法的な関係により成立している。私たちの死すべき運命はこの儀式的な側面を表し、私たちの生は自発的な側面に相当する。そして両者はお互いに根拠を与えあう関係にあり、私たちの生は死後の世界の圧倒的な不可知性やそこに広がる時間の永遠性を背景にすることで意味を持つのである。
このホフマンの見地からは、フロイトの見解2に見られる問題、すなわち対象の儚さがその対象に価値を与えるという提言については、ある種の回答を用意していることになる。つまり生は限界を背景にして意味を持つことになる。ホフマンはそのことを実際の死を目前にした人々の証言から実証したのである。