2021年1月7日木曜日

私が安心した言葉 推敲 1

  他人からかけられた言葉でとても安心した気分になることがある。それは確かなことだ。しかし私のような援助職の場合、人からかけられた言葉で安心した体験ばかりでなく、私が相手にかけた言葉が全然癒しとならなかったり、裏目に出てしまった体験などもいろいろ浮かんでくる。一方がかけた言葉が他方にどのように受け取られるかについては、あまりにたくさんのファクターが関与し、およそ予想がつかないことが多い。

最近心理の学生たちと読んだ漫画に「うつ病九段」(先崎学作)」があった。その中に印象深いシーンが描かれていた。作者はうつ病を患い、天下のKO病院に入院する。そこで教授の廻診に遭遇する。作者が恐る恐る「私の病気は治るでしょうか?」と大先生に尋ねると、その教授はそれまでの厳しい顔を崩して「もちろんですとも。ここはKO病院ですよ」とにっこり笑い、作者は理屈に合わないとは思いながらも、その言葉にすっかり安心してしまう。

私がこのエピソードを面白いと思うのは、安心感を与える言葉がけには、しばしばこのような理屈抜きの働きがあるように思うからだ。おそらくその精神科の大教授は似たような言葉を他の患者さんにも掛けたことがあり、その不思議な効果に気が付いていたのかもしれない。しかし全くのアドリブで出てきた言葉かもしれない。そしてもちろん言われた人の中には「なんなの、あの先生?KOがどうしたって言うの?」と憤慨する方がいてもおかしくないだろう。だからこの言葉がけが与えた安心感も、予想不可能な偶発的なものであった可能性もある。

一つ言えることは、私たちの多くは他者の気持ちに同一化をしつつ日常を送っているという事である。新型コロナの感染者数がうなぎ上りになっているときに、「コロナ?そんなに簡単にはかからないから心配ないよ」と言われると、その楽観的な人の気持ちが自分に乗り移るのだ。それは理屈を超えたプロセスで、おそらく養育のプロセスで親との同一化を出発点としている。しかし社会の中で一応自立している私たちがいつ、誰からの言葉でその同一化を上書きされるかは予想がつかない。それはある時は起きるべくして起きるとしか言いようがないのだ。だから私は言葉一つで安心したり、させたりするということをあまり信用していない。それに不安におののく人を目の前にして、私たちの多くはどのような言葉をかけたらよいかわからない。そんな時に口から出る言葉は、いかようにも転ぶ可能性がある。「大丈夫だよ」は助けにもなれば、「みんな根拠もなしにそういうんだよ!」と撃退されてしまうかもしれないのだ。

私がもう少し信用しているのは、ある人からわかってもらったと思えたときにかけられた言葉である。これは偶発的な言葉がけから生まれた安心感ではなく、もっと確かで持続的な体験として心に残る。またその言葉をかける側としても、分かってあげた時に出たと感じられる言葉は、たとえ相手に通じなくても後悔は残らない。人に気持ちはなかなか通じないものだという、当たり前の事実に立ち戻るだけである。

分かってくれた時のありがたい言葉は、身近な人から聞かれることはあまりない。むしろ「他者」から来る必要がある。わかってくれることをあまり予想していなかった人が分かってくれた時に私たちは初めて「わかってもらえた」と思う性質があるらしい。だからいつも母親や配偶者に「わかって」もらえても少しも新鮮味のない人が見ず知らずの人からわかってもらえたと感じると、その体験は浮彫りのようになって私たちの記憶に残るのである。

さて援助職や心理職に携わる人たちは、私の文章をここまで読んで、「それなら私はいつも相手を分かってあげようとしていますよ」と考えるかもしれない。「それでも私の言葉は相手には響かないことばかりです」と。でも人間は簡単に相手を分かることなどできないと私は思う。人は自分が仕事として、あるいは隣人として出会う以外の人には、つまり自分が親身になって相手の話を聞く立場にないと感じたときには、とても冷淡なものである。

例えばあなたが街中で外出先で財布を無くしたことに気が付き、帰りの電車賃すらないことに気が付くとする。あなたは本当に困ってしまうだろう。あいにく小銭を借りに駆け込む交番も見当たらない。そんな時に思い切って見ず知らずの通行人に200円や300円を「貸して」くれるような人を見つけることが出来るだろうか。ほとんどの場合そのような話を持ち掛けただけで多くの人は怪訝そうな顔をして立ち去ってしまうだろう。

私たちは社会や家庭の中で様々な人たちと関係している。そこで相手の気持ちを理解し、それを示す際に、大抵は「この人にはこの程度話を聞く」という基準や限度を設けている。相手に対する自分の立場、例えば担任として、指導教官として、セラピストとして、あるいは友人として、という風に。そしてどんなに相手に親身になったとしても、自分の中に想定している限度を超えることにはとても慎重になるし、時にはそう要求されることを不当なものとさえ感じるものだ。そしてその限度は多くの場合「(治療)構造」として必要であり、その関係性にとって大切なものとして扱われている。

例えばセラピストが週一回数千円の支払いが出来なかったクライエントに一回無料のセッションを申し出たとしよう。これは掟破りであり、治療者の側のアクティングアウトとしてほとんど肯定的な扱いは受けないだろう。しかしその一回無料のセッションはそのクライエントには特別のものに思えるかもしれない。「本当にお金が払えない、それでもセッションを受けたい」という気持ちを分かってもらったと思うからだ。

私はこのような無料セッションを推奨するつもりも批判するつもりもないが、いわゆるセラピストの「持ち出し効果」との議論で興味がある。ある研究によれば、セラピストが自分のプライベートな部分を犠牲にしていると感じた際に(つまりセラピストが「持ち出し」をした際に)患者はそれを敏感に感じ取り、それが治療関係の向上につながるという。通常いくら他人に対して理解ある態度を示しているつもりでも、私たちは想定範囲以上の持ち出しをしないものだ。(もちろん対手に個人的に興味や魅力を覚えた場合は話は別になる。)それを社会である程度揉まれている私たちはたいてい理解している。しかし時々感じる「わかってもらえた」という体験にはこの部分が関係しているらしい。