2021年1月5日火曜日

私が安心した言葉 1

 このテーマで原稿を書く必要が急に生じた。(恥ずかしながら、依頼原稿をすっかり忘れていて、締め切りが過ぎてから思い出したのである。) 面白いテーマだが、私の仕事の場合は言葉に癒された体験と、私の言葉が相手の癒しになった体験がいろいろ浮かび、また癒しの言葉のはずが全然そうならなかった体験や、逆に裏目になった体験も思い出される。一方がかけた言葉が他方にどのように受け取られるかについては、あまりにたくさんのファクターが関与し、およそ予想がつかない。またそこが面白いのだが。私が精いっぱいかけた言葉に患者さんが激怒したという事はこれまでに少なくとも二回はあったし、逆に何気ない言葉を相手がずっと覚えていてくれたりすることもあった。総じて言葉がけは水物、という気がどうしてもする。

最近読んだ出色の漫画「うつ病九段」(先崎学棋士原作)」を読んでいて面白いシーンが描かれていた。先崎氏はうつ病を患い、天下のKO病院に入院する。そこで教授の廻診に遭遇する。先崎氏が恐る恐る「私の病気は治るでしょうか?」と大先生に尋ねると、その教授はそれまでの厳しい顔を崩して「もちろんですとも。ここはKO病院ですよ」と言い、にっこり笑う。先崎先生はその言葉にすっかり安心してしまう。

私がこのエピソードを面白いと思うのは、これは恐らくよくある種の安心付けであり、その精神科教授は恐らく似たような言葉を他の患者さんにも掛けたことがあり、いい反応を得ていたからであろう。先崎氏が語っているように、この教授の言葉にはさしたる理屈は込められていないだろう。中には「なんなの、あの先生? KOがどうだって言うの?」と憤慨する患者さんがいてもおかしくないだろう。でも彼にとってはなぜかとても安心感を生んだのだ。一つ言えることは、私たちは常に他者の気持ちに同一化をしつつ日常を送っているという事である。「コロナ?そんなに簡単にはかからないから心配ないよ」と言われると、その楽観的なその人の気持ちが自分に乗り移るのだ。しかしこの同一化のプロセスはいつどのように、どのようなメカニズムで生じるかが少しもわかっていない。それはある時は起きるべくして起きるとしか言いようがないのだ。

私は「安心させる声掛け」という事で真っ先に思い出すのが、ある人と出会い、その人の言葉を聞いて「あれ、この人は自分のことを考えている」とすぐに思えたという体験である。これは偶発的な言葉がけから生まれた安心感ではなく、もっと確かで持続的な体験として心に残る。私たちが日ごろで会う他者はほとんどは相手の親身になって話を聞くという事をしない。だからたまにそのような人に出会うとその体験は浮彫のようになって私たちの記憶に残る。その他者とは教師や指導教官かも知れないし医師かも知れないし、セラピストかも知れない。その多くは自分より立場が上で、より強い立場にあり、私たちの気持ちを真に受け止めることがなくても自分たちの立場が危うくなることはない。例えば大学の指導教官は、指導生からの評価を受ける立場にでもない限りはそれを軽く聞き流すことが許される。彼らにとっては自らにとっての上司となるような、自分たちがいかに評価されるかが将来の昇進につながるような立場の人々には一生懸命に尽くすのだ。ところが一介の学生が、一人の患者が指導教官や主治医から一身に耳を傾けてもらえるという体験は実は残念ながら非常に稀有で、それだけに特別な体験になるのだ。