ベッカーは次のように言う。ランクはフロイトのように性愛性を重視しなかったが、それは性愛性を脱価値化したのではなく、アウグストゥスやKのように、人は自分たちから絶対を作ることが出来ないにもかかわらず、性愛性には対象を絶対と見なす傾向がある点を指摘したのだ。The line between natural self-surrender, in wanting to be a part of something larger, and masochistic or self-negating surrender is thin indeed (p.170).ベッカー的には、フロイトが性愛性を絶対視している時点でそれを誤りと見なしたというわけだろう。あとは目に付くところを抜き出す。ランクは、自然な形で自己を服従させること、より大きなものの部分となろうと望むことと、自虐的で自己否定的な服従は似て非なるものだという。そしてこの問題は人が決して喜んでは認めようとしない事実、すなわち人は決して一人では自由には生きていけないこと their own natural inability to stand alone in freedom. により、よりこみ入った問題になるという。また芸術と精神病は近い関係にあり、それは自分たちの作り上げたもののなかに捉われているからだともいう。
この後も類似の記述が続く(p.173)。Kによると人間の葛藤から抜け出す唯一の道は、十全なる放棄full renunciationだ。すなわち自分の命をhigher power に捧げることだ。次はどう訳すのだろうか? Absolution has to come from the absolute beyond. 赦しは完全なる彼方(死後の世界)??から来る???? ここら辺は武士道の精神ととても近いという印象を受ける。こんなことも言っている。自分や世界をあきらめること、その意味を創造の力にゆだねることは、人間にとって最も難しいことだ。そのためにこの仕事はもっとも広い自我を持った人のパーソナリティに委ねられなくてはならない。ニュートンは偉大な人物だったが、常に聖書を手にしていたのだ。このあとも思わずうなされる記述が続く(p.174)。フロイトは神に服従するのは自虐的であり、自分を空にすることemptying oneself は卑下demeaning だと考えたかもしれない。しかしランクによれば、そうすることは逆に、自己の到達できる最も高度な理想化なのだ。それはアガペの自己拡大の最大のものである。It represents on the contrary the furthest reach of the self, the highest idealization man can achieve. It represents the fulfillment of the Agape love-expansion. 自己犠牲は人間の精神発達の最も高度のものだと私も思う。さすがに自分の命まで投げだしたいとは思わないが。
ランクの章は特に複雑という事もなく、あっという間に次の章(第9章)に移る。「精神分析の現在の帰結」という章だが、ここに書かれている内容も比較的平易のように見える。要するに神経症とはフロイトが考えたような抑圧された欲動の副産物ではなく、人間が本来持つ死への恐れからの防衛を意味し、不安をある症状に限局させ、それに関わることで死への恐れを忘れさせるものであるという主張だ(p.181)。そして死の問題を遠ざけるために生の沢山の部分を切り落とすことで、神経症者は事実上の死に近づいているとさえ言っている。