2021年1月10日日曜日

続・死生論 1

  途中途切れながらも死生論について書いてきた。正月休みに自分が書いたものを読み直してみたが、全然ばらばらである。何物にも捉われない自由連想。でも「賽の河原の石積み」程度にはなっているかもしれない。要するに論文を書くための教養を少し積んだというわけだ。しかしどこかで諦めをつけて焦点づけしなくてはならない。ということで元の論文に戻って書き直しながら考えていこうと思う。

 Transience and Mortality という論文を、最初はこんな風に始めた。「私たちは混沌として先の見えない世界に生き、日々の生活で獲得とその喪失を繰り返してきた。その私たちが知っているのは、現実は常に移ろいやすくtransient、また私たちの命が限られたものであるということだ。精神分析がそのような世界に生きる私たちに指示してくれるのはなんだろうか? フロイトの残した著作、そして私の祖国である日本の文化をヒントにこの問題について考えていきたい。」
 まあこれは特に変更の必要はないだろう。この最初の趣旨は変わっていない。

「フロイトは精神分析理論において無意識を探求し、その内容を明らかにし、言語化することの重要性を説いた。しかし現代の精神分析家たちは心の中にあって知りようのないもの、言葉にならないもの、あるいは不在なものについても関心を高めている。それはいかに科学が進展しようとも、そして分析の道を究めても、未来を予知することが出来ないことを私たちがますます自覚するようになっているのであろうか。」

ここもこのまま残すか。以下は今回付け加えていく部分だ。

  フロイトは彼の時代に、かなり楽観的な足取りで真実の探求を目指していたように思える。しかしそのフロイトが、実は不在や不可知に意味を見出そうとしていたことは十分には注目されていないかもしれない。 フロイトはその業績の中期に「無常についてOn Transience」(1916)という短い論考を発表している。そこでは美しきものがやがて損なわれることを嘆く詩人である友人(実際はリルケであったという)に対してフロイトがある注目すべき二つの提言を行う。第一には、美はそれが「常ならぬtransientもの」こそ、それが「喪の前触れ foretaste of mourning 」を伴うためにその価値を高めるということである。そしてさらにtransience に美を見いだせないのは、その友人が喪の仕事に抵抗しているからだと述べる。

この「無常について」はフロイトの業績の中では異彩を放っているため、その意味はさまざまに論じられている。特にこれがフロイトの他の論文にはあまり見られないような、実存的な問題について、特に死生観についての彼の立場を表明しているとも考えられる。

この論考の目的は、この論文を起点として、フロイトが暗に抱いていた死生観について、それを儚さとの関連からより明確に示すことである。そしてそこに美的な価値がいかに重要な役割を演じるかについても論じたい。

ちなみにこの論考はその後 Herbert Lehmann(1966) の研究などにより、この詩人や友人がリルケやザロメであること、彼らの散歩をしながらの会話はそれ自身がフロイトのフィクションであることなどが明らかにされている。