2021年1月11日月曜日

続・死生論 2

 ちなみにこの「無常について」という論文にはMatthew von Unwerth という人の”Freuds RequiemMourning, memory and Invisible History of a Summer Walk (2006)という著作が発表されその意味が全面的に検討されることになった。この著書はフロイトに関する研究がそれまで触れたことのない、苦悩に満ちたセンティメンタルな、あるいはロマンティックなフロイト we come to know a sentimental, melancholic, even Romantic の側面を浮き彫りにしたとされる(Book Review. Richard Gottlieb. p. 592)。またそれはフロイトの芸術や文学への関心を示し、さらにフロイトとリルケとザロメの人間関係にも焦点づけられている。ただしそれをフロイトの死生論とみる傾向は少ないようだ。
 さらに関連文献として、Schimmel の論文は極めて重要である。Schimmel はこの論文を、「悲哀とメランコリー」、「戦争に関する時評」と深く結びつき、フロイトがその著作の後期にそれまでもリビドー論から抜け出した新たな境地を示しているという。Paul Schimmel (2018) Freud’s “selected fact”: His journey of mourning  International Journal of Psycho-Analysis, 99(1):208-229
 彼はフロイトが発見したのは、「喪の中心テーマは、喪失による精神的な苦痛を耐える能力こそが、心的な現実に向き合い続けるための条件である」ということであり、これこそが彼が臨床的な現実から出発した発見であると述べる。The centrality of mourning, that is the capacity to tolerate the psychic pain of loss, as a condition for maintaining contact with psychic reality, is a clinical fact.(Schimmel, p.225) そこに私が付け加えたいのは、フロイトはおそらく自分の人生に対する喪の作業を含んだメッセージであったということである。そしてそこで描かれているtransience の意味はあまり論じられていない。問題はこれが死生学thanatology と関係し、そこに美の要素が加わって論じられているということである。Schimmel が述べている、フロイトのメッセージ、すなわち喪失による精神的な苦痛を耐える能力とは、端的にフロイトが自らが死すべき運命であることを知るべきだという主張について述べているようにも思える。
 その意味でこの儚さについてはフロイトの事実上の死生論であるとみなすことが出来よう。このような立場を示すのがHoffman であった。
 さてこのホフマンさんの説明は最初の論文ではとても短いものであった。以下の通り。「米国の分析家I.Z. Hoffman は、このフロイトの見解に深い意義を見出し、またフロイトがそこでは十分に展開されていない死生観の問題との関連について考察を深めた。常ならぬものの最たるものは私たちの命であり、死後の世界の圧倒的な不可知性やそこに広がる時間の永遠性との対照において私たちの生は特徴づけられる。しかしHoffmanはこのフロイトの思想に潜在的にあった不可知性や無常を死生観と結びつけた。そして死すべき運命を背景にすることで、あるいは死との弁証法的な関係において生の価値が生まれると主張し、それを実際の死を目前にした人々の証言から実証した。Hoffmanはこれを、フロイトがそれ以外では不十分な形でしか展開していない死にまつわる理論とは別個に提示した実存的な理論とする。」
 これでは心もとないので、もう少し付け加えよう。