2021年1月30日土曜日

続・死生論 21

  そこにないもの nothingness, emptiness の意味を見出し、その価値を問うた哲学が、日本の京都から始まったことには意味があるだろうか?これは西欧では起きなかったことなのか。西欧における虚無主義に対抗する形で西田や西谷が打ち出した空や無の哲学はそのような意義を持っていたのだろうか?もしそうだとしたら、逆に言えばフロイトはそれを先取りしていたと言えるのだろうか?ここが悩ましい議論ということになるだろう。
    一つ明らかなのは、1982年に西谷が「宗教と無 Religion and Nothingness」を出版して高い評価を得たことが一つの大きなきっかけだったらしい。ここから一つ一つ西谷の理論を整理する余裕がないが、ネットでダウンロードできる James Heisig という人の「無の哲学者たちPhilosophers of Nothingness」を読んでみると、貴重な文章に出会う。西谷によれば、空 emptiness とは一種の立場 standpoint であり、そのイメージは仏教における中道であり、「仏教における中道とは客観的に現実的な世界を受容することと、それを主観的で幻覚的だと棄却することの間を言う。つまり現実の両方の側を見ることが出来る視点を指すのだ。Buddhist ideal of a “middle way” between the outright acceptance of the world as objectively real and the outright rejection of it as subjective and illusory, namely a standpoint from which one can see both ideas as two sides of the same reality. (p.223)」これはまさにホフマンが言う弁証法的構築主義の考え方である。あるいはこの方がもっと引用しやすい文だ。