ということで必然的に私自身の引用になる。
私は「受け身性、行動を起こさないことと日本のエディプス Passivity, non-expression
and Oedipus in Japan」という論文で、日本社会では受け身的で、行動を起こさないことが、逆説的にある種のアピールや誘惑としての意味を持つ可能性について論じた。このような世界観は日本の伝統に根ざしていると言える。日本文化に特徴的な秘匿性 secretism や表現しないことnon-expression とどのように関係するか。少なくともこのテーマは空とか無の問題と関係していそうである。本質的であればあるほど形を持たないという逆説がそこに関係している。
私はこれを書きながら、一つ疑問がある。私がIJPAという専門誌に論文を掲載してもらったことは、この10年間で一番幸運なことだったが、正直なぜこの論文が受理され、それがどのような意味を持っているのかがわからない。それが分かればそれを継承し、発展させた論文を書いていきたいし、もちろん今書いている死生論のこの論文にも反映させたい。でもそれが何かが分からない。この論文で私が書いたのは次のようなことだった。「日本では秘密にされ、表現されないことの中に真実があると考える傾向にある。そしてそれがエディプスコンプレックスの議論にどのようにかかわるかが問題となる。」これが「日本におけるファルス問題」である。日本人はファルス(象徴的な意味でのペニス)を持っていないふりをしているのか、隠しているのか、実は本当に持っていないのか? これは持っていたらふつう、それが大人の印であり、それを隠す道理はない、という西欧社会のロジックに比べてかなり複雑でややこしい。核で言えば日本は「私たちは核を保有しているかどうかについてコメントいたしません」という立場に似ている。(最も核を保有していないということはあまりに明らかだと世界は思っているので、この「ノーコメント」は何の抑止力にもならない。
ではこれがどのようにして死生学と関係してくるのだろうか。この論文では「羽裏」について論じた。日本で羽織の裏側に華美な絵を施すことを言う。全く同じ模様でも、羽裏は「羽表」(そんな言葉があるかどうか知らないが、要するに羽織の表面に装飾を施すことをこう呼ぼう)にない美しさがあるのだろうか。すると羽裏は隠れていることからくる美しさを持っていることになる。それと同じように対象はそれが本質的には(永遠には)存在しないものとして、いわば不在の在としてとらえることで美しさを発揮するのであろうか、という話になる。「対象の喪を先取りすること」(フロイト)とは「対象をその(本来的な)不在において体験すること」だとすればこれは同じ議論になる。フロイトは羽裏のことを言っていることになる。羽裏を身につけるという体験はそれを実際に体験することだろうか。羽裏を着ている時、その模様は見えていない。でも心の中では見ているし、その模様は心的な意味でも、物理的な意味でも内在しているからだ。
北山先生は transient (儚さ、無常)は時間的な推移であり、transitional (移行の)は場所的な推移であると説明した。しかし実際は transience を今ここで体験するとしたら transitional なものとして体験するしかないだろう。それは羽裏なら裏と表として同時に、対象なら外的対象とそれが内在化された対象とを同時に、ということになる。それが喪を先取りするということにもなり、ホフマンはそれを弁証法として表現した。ここら辺の考察から、美はtransiency に本来的に備わっているもの、という結論を出していいのだろうか? 少なくとも私の研究はそのような主張をしていた。