「しっかり喪をやれば大丈夫」という考えに対する二つの批判がある。一つは喪をやり遂げよ、というフロイトの言い方には一種のオプティミズムがあり、それは「徹底操作 working through により抵抗を乗り越えよ!」という姿勢に通じるというものである。もう一つは死の不安に対する防衛であるという考え方だ。というのもフロイト自身はとても死を恐れていたからである。ホフマンはこのオプティミズムについて、エリクソンはコフートと同列だと考えている。そしてフロイト自身もこれらの反省から後に「喪は簡単にやり遂げることは出来ないよ、一生ものだよ」という考えに移っていったのであろう。
しかしもう一つの考えがあり、それはフロイトが人生の一つの境地を示していたというもものだ。フロマー、ホフマンの二人を引用しよう。フロマーは友人の分析家が死に至る病という宣告を受けた後に性の喜びをかみしめた同僚のことを書いている。それに仏教の構想などに見られる悟りの境地などは、自己と世界の平和的な受容を遂げているではないか。フロイトもそのような境地について語っていたのかもしれない。