2020年12月5日土曜日

死生論 3

 「しっかり喪をやれば大丈夫」という考えに対する二つの批判がある。一つは喪をやり遂げよ、というフロイトの言い方には一種のオプティミズムがあり、それは「徹底操作 working through により抵抗を乗り越えよ!」という姿勢に通じるというものである。もう一つは死の不安に対する防衛であるという考え方だ。というのもフロイト自身はとても死を恐れていたからである。ホフマンはこのオプティミズムについて、エリクソンはコフートと同列だと考えている。そしてフロイト自身もこれらの反省から後に「喪は簡単にやり遂げることは出来ないよ、一生ものだよ」という考えに移っていったのであろう。

しかしもう一つの考えがあり、それはフロイトが人生の一つの境地を示していたというもものだ。フロマー、ホフマンの二人を引用しよう。フロマーは友人の分析家が死に至る病という宣告を受けた後に性の喜びをかみしめた同僚のことを書いている。それに仏教の構想などに見られる悟りの境地などは、自己と世界の平和的な受容を遂げているではないか。フロイトもそのような境地について語っていたのかもしれない。

この問題についての私の個人的な見解について述べたい。それはフロイトのリビドー論に依拠するものである。フロイトは喪の完遂により、リビドーは解き放たれるとした。フロイトはリビドーとは結局私たちの「愛するキャパシティーである」(1916)と定義したが、それはフロイトのいう「喪の前触れforetaste of mourning」により減殺されるのだ。私の仮説は、人生は私たちが持ちうるリビドーを投入することが出来るならば、その喜びを最大限に得ることが出来るであろうという事である。つまり私たちは運命を忘れるときには生の喜びを十二分に味わうことが出来るという事になる。しかしそれは一時的にでしかなく、何故なら「喪の前触れ」はたちどころにやってくるからである。リビドーとはこのように寄せては弾く波のようなものであり、私たちの愛するキャパシティーは、愛情と痛みが表裏一体となっていることを示しているのだ。