揺らぎのエッセイ
「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。やっと肩の荷が下りたというわけだが、しかし執筆にかけた二年ほどこのことを考え続けていたので、余韻が残っている。というよりは揺らぎのテーマはこれからもますます深まっていく気がする。というのも私にはこの世で起きていることがことごとく不思議で分からなくて興味をそそるからだ。物事が揺らいでいるという事は、そこに何らかの規則性と意外性や新奇性が常に一定の割合で混じっているという事だ。揺らぎというのは一種の波であり、行ったりきたり、上がったり下がったりするという性質を持つ。株価の上昇がそうであり、気温の上下がそうであり、例えば新型コロナの陽性者数だったりする。気温なら今の季節(11月初旬にこれを書いている)なら10~20度C位を行ったり来たりしている。雨は降らない日が多い。しかし全く正確な動きを見せないからこそ私たちは上着や傘の準備を怠らない。これがことごとく一定のリズムを刻み、予想できるとすると、それはいわば体験から消える。というよりはそれがルーチン化され、自動化され、考えないで毎日を送ることになる。
例えば毎日午後2時から3時半まで正確に雨が降るとしよう。おそらく人はその間は戸外に出ないようなスケジュール組むようになり、雨のことを忘れてしまう。一日の気温の変動が一定なら、羽織るものについては(少なくともその薄さ、厚さについては)考えなくなる、という風に。文明が進むという事は、この揺らぎを規則にすることでその存在を忘れさせてくれる。例えばコンセントに入れると電気がともる。蛇口をひねると水が出る。これはあまりに確かなことになったせいで、私たちは電気や水のことをあまり考えずにそれを利用するようになる。(どこかの国のように、水道が使える時間が一日のうち限られていたり、しょっちゅう停電が起きるとすれば、私たちは一日中電機や水のことが頭から離れなくなるのだ。