2020年10月1日木曜日

他者性 推敲 3

 さてそれから精神分析では解離は表立っては論じられなくなったが、まったくこの概念が用いられなかったというわけでもない。フェアバーンもウィイコットも時代が下ればサリバンも、解離という言葉や概念を用いているのである。しかしそれらの臨床家が受け入れたのは、解離が防衛的な形で用いられたという事である。フロイト自身は解離について語らなかったにもかかわらず、フロイト以外の分析家たちのこの語の使い方はフロイト的(つまり力動的)なのであった。つまり解離は防衛として生じ、それは抑圧との類似性を持ち、解離された部分どうしはある種の機能的、力動的な連関を持っているとみなされる。それをもう少し推し進めると、臨床的には、ある人格は、別人格の心と連動し、その意味で本当の意味での「他者性」はないと考えられる傾向にある。

 分析的な心の理解について

 ここで精神分析的な心の理解の基本について一言申し上げたいと思う。それはあまりに常識的で、改めて申し上げるまでもないことだが、それは心が一つであるという事である。もちろん心はいくつかの部分に分かれている。それをフロイトは意識、前意識、無意識と呼んだり(局所論モデル)、超自我、自我、エスと呼んだり(構造論モデル)した。しかしそれらは全体として一つなのであり、それらは力動的な連続体として捉えられるのである。そしてその意味では、意識と無意識はつながっているのだ。これがフロイトが発見したと考えた心の秘密の最大のものなのである。なぜならこれまでは十分に説明がつかなかった人の行動や症状を説明する手段が得られることとなったからである。

しかし心を一つの全体としてとらえる見方を提唱したフロイトにとっては心がいくつにも分かれている場合には都合が悪くなってしまう。解離性障害を受け入れないフロイトにはそのような事情があったものと考えられる。

解離における心の在り方が力動的でない例としては、別人格の出現が多くの場合唐突であるという事実が挙げられる。そして表れたときはすでに完成形に近い。ある患者さん(30代女性、男性の性自認)は、別人格Bが最初に現れたときについて次のように回想する。「ある日彼女はピンクのランドセルを背負って、転校生として現れました。それがBだったんです。」もちろん実在する転校生ではなかったが、それがありありと見えたという。そしてそのBが心に住まうようになったのだ。ある別の患者さんの交代人格は、覚えている最初の体験について語った。「最初に体験したことははっきり覚えています。中学校の屋上にいて、街全体を見渡していました。」このような人格の出現を、フロイトだったらどのように説明しただろうか。これは防衛本能のなせる業だとしたら、人格たちはどうしてこうまで具体的で、かつ唐突に出現するのであろう?

交代人格と自我障害
 交代人格を他者性を有しないものとして、ある意味では自己の一部としてみなすという傾向は、少なくとも欧米の文献には著しいが、そこには交代人格を一つの自我として認めないという含みがある。しかしそれは本当だろうか。
 精神医学では自我の障害として、ヤスパースの4つの障害という概念がある。これはもっぱら統合失調症において損なわれているものとして4つを挙げている。
「能動性の意識」 自分自身が何か行っていると感じられる
「単一性の意識」 自分が単独の存在であると感じられる
「同一性の意識」 時を経ても自分は変わらないと感じられる
「限界性の意識」 自分は他者や外界と区別されていると感じられる

これらは解離性障害において、具体的にどのように損なわれているだろうか。すでに出した車を運転していたAさんと別人格Bさんを別人格についてはどうであろうか?Aさんは自分がハンドルを握り、自分が自分のタイミングで車を出そうとしているという能動感を持つ。だからBさんの声に意外な思いがしたのだ。AさんはBさんとは異なることを自覚している。(「Bはなんて自分と違ってイライラしているのだ、と驚いた、など。)だからそれぞれが能動的で単一の存在と信じているのだ。また同一性についてはどうか。AさんとBさんは時間が過ぎても自分を自分と感じるだろうか。おそらく。昨日はBさんで活動していたとしても、Aさんは「昨日は奥で休んでいた」という主観的なアリバイを持っているのが普通である。もちろんAさんとBさんが「入り混じる」こともあるだろう。しかしそれはAさんとBさんは通常はしっかり分かれているからこそ、曖昧なときには「混乱」させられることもある。(二色のソフトクリームのような感覚を味わう)。