2020年9月30日水曜日

他者性 推敲 2

 「他者性を認めない」という傾向の由来を解離の歴史から紐解く

ここで解離における交代人格を独立した他者としては認めないという傾向について、その由来を考えてみよう。19世紀の半ばには、「意識の splitting (分割)」という概念により様々な精神病理を説明することが試みられた。これは催眠やヒステリーの原因としてのみならず、統合失調症の病理についても論じられる傾向にあった。ヒステリー研究におけるフロイトもブロイラーも、そしてジャネもがそれぞれ異なる意味で「意識の分割」を主張していたのだ。
 ところが問題は、 splitting doubling という言葉自体があいまいで両義的だったことである。O’Neil によれば、それは division (分割、分岐すること) multiplication (増殖すること)の両方を意味していた。(O’Neil (2009)

O'Neil, J. (2009Dissociative Multiplicity and Psychoanalysis. (In) Dell, Paul F. (ed.)  Dissociation and the Dissociative Disorders - DSM-V and beyond., Routledge (Taylor and Francis), pp.287-325.



この図を見ればわかるとおり、スプリッティングには二種類の意味がある。左は分裂、右は増殖である。よく見ると左は一つのものがわかれるが一部はつながっている。しかし右では分割は数が増えることを意味する。解離において「意識のスプリッティングが生じている」とひとことで言っても、多くの人は、両者の区別を曖昧にしていたのではないかと考えるべきであろう。


フロイトとジャネはシャルコーから解離のイニシエーションを受けた

そもそもフロイトとジャネの行き違いはどのように生じたのであろうか。二人は当時の心理学の代表的な人物であり、当時ヒステリーと呼ばれていた解離性障害の患者さんたちに接していた。フロイトとジャネは、別人格の成立に関して、全く異なる理論を持っていた。ジャネは解離性障害の各人格の「他者性」を全面的に認める立場の理論を展開していた。フロイトは別人格の「他者性」を認めないという素地を作り、それは精神分析を超えて一般に広まった。だから前盛期はずっと精神分析の影響下では、複数の人格の存在は認められなかったのである。
 事の始まりはフロイトがブロイアーと書いた「ヒステリー研究」であった。1889までにフロイトは催眠による暗示から、カタルシス療法にシフトし、一連の患者の治療を通じて自らのスタイルを確立していった。フロイトは1892年にブロイアーに共同の執筆を迫り、共著論文「ヒステリー諸現象の心的機制について暫定報告」 を書いた(1893年)。それをもとに1895年「ヒステリー研究」を発刊することになる。これは第1章が「暫定報告」の採録、第2 アンナOの治療、第3 フロイトの4ケース、第4 ブロイアーの理論、第5 フロイトの理論、という構成だった。しかしこの本の中でフロイトはブロイアーと異なる意見をすでに表明している。彼は1889年にベルネームを訪れてから、催眠を離れることについては吹っ切れた。1992年はちょうどルーシーの治療に手ごたえを感じていたころだろう。一方ブロイアーは、10年目に治療を終えていたアンナOについて書くことになる。アンナO.の治療がとても成功したとは言えないと考えていたブロイアーにとっては、このような本にまとめるのは不本意だったのである。だからこの辺からフロイトとブロイアーはすでに精神的な隔たりを持っていたということになる。
 フロイトとブロイアー(ジャネ)は、ヒステリーの理解について異なった考えを持っていたが、それを簡潔に言えばこうなる。

p  ブロイアー(ジャネも同様):トラウマ時に意識のスプリッティングが生じる。

p  フロイト : 私は実は類催眠状態に出会ったことがない。(結局は防衛が起きているのだ。)

他方ジャネは意識のスプリッティング(解離)を意識の増殖 multiplication としてとらえていたと考えられる根拠がある。それはジャネが解離の「第二法則」という提言を行っているからだ。「(解離が生じる際にも)主たるパーソナリティの単一性は変わらない。そこから何もちぎれていかないし、分割もされない。解離の体験は常に、それが生じた瞬間から、第二のシステムに属する。