トラウマと攻撃者の由来
トラウマの現実性についての議論は、もう一つの問題を提起している。それは患者の示す攻撃性がどこに由来するのかという問題である。Freudが神経症症状の成立に関する仮説として唱えたのは、性的欲動と攻撃性の抑圧であった。そこでの攻撃性は本能的なものであり、すなわち内在的なものである。しかしトラウマの現実性に着目した場合は、それとは異なる攻撃性の由来を考える必要がある。
解離における攻撃性の問題を正面から取り上げた論文としては、すでに紹介したFerenczi の「言葉の混乱」が挙げられる。そこで彼が論じたのは、攻撃者との同一化 identificcation、ないしは取り入れ introjection という概念であった。しかし彼のいう「攻撃者との同一化」とは、被害者が攻撃者に成り代わるという事ではなく、あたかもその攻撃者に同一化する形でその願望を自分の願望のように感じ取る被害者の様子を描いている。Ferenczi は攻撃者との同一化のプロセスで最も破壊的なものは、大人の罪悪感の取入れIntrojection of the guilt
feelings of the adult (p162). でありそれにより成立するマゾキズムであった(Frankel, 2002)。彼は被虐待者が攻撃者になることよりは、自らを傷つける部分について主として論じているのである。
Frankel はこのFerencziの記載に関して次のように説明する。すなわちFerenczi はHeinrich Racker (1968) の論じる調和的、補足的、という二種類の同一化のうち、調和的な同一化について述べているという。しかし攻撃者との同一化には、補足型のそれの結果として、自身が加害性を有するプロセスもあるはずであるとする。これに関しては岡野もいわゆる「黒幕人格shadowy personality」についての記述において、補足型の同一化が生じる可能性を論じている。
ところでしばしばこれとの混同への注意が呼びかけられているのがAnna Freud (1936) の記載した同名の「攻撃者との同一化」という概念である。上に述べたように、こちらの概念こそが攻撃を向けられた人が攻撃者としてふるまうというプロセスを論じているという点が興味深いが、A,Freud はこれを解離の文脈で用いているのではないことは言うまでもない。
それでは現在の分析家たちはDIDにおける攻撃性の由来の問題をどのようにとらえているのだろうか。攻撃的な交代人格については、いわゆる内的な迫害者internal persecutor ないしは迫害的な人格 persecutory personalityとして諸家が記載している(Kluft, Putnam, Ross, Howell, van
der Hart etc)。彼らのとらえ方もおおむね、それが攻撃者との同一化や取入れによるものと説明し、それが患者本人に対して保護的な役割を果たしてきたものとしてとらえている。Putnam は少なくとも一部はそれが当初の攻撃者との同一化や取入れであるとするsome persecutor personalities
can be recognized a introjects of the original abuser (p.108)。Van der Hart et al(2006)もそれがいわゆるEP(emotional part)の一つのタイプであり、それが一時は保護的な役割を果たしていたことを他の人格に伝え、それ自身に対しては敬意を持って扱うことを薦める(p312)(2006)。Howell (2011) もまた攻撃的な人格(迫害的な交代人格persecutory alter)が成立する際の防衛としての意味を強調している。「迫害的で虐待的な人格を有するという事は、内的なアルカイダやタリバンがいて、奇妙で古臭いルールを少しでも破るとそれを懲罰してくるようなものである。」「それは内的、外的な迫害者に情緒的なアタッチメントを起こしている」という。しかしその振る舞いはいわば「攻撃者」として外にも向けられるとする。「これらの人格が他者に向かうことはそれほどないが、時には治療者やそのほかの人に対して強迫的だったり危険だったりする。(p211) Howellはこの迫害的な交代人格はもともと迫害的なケアテーカーを模して成立するが、そこには防衛的な目的があると説明する。つまり被虐待者は外部への怒りや恐怖の表現を抑えられることが身を守ることにつながるという。
これらの記載が示すのは、DIDに関する分析的な記載はおおむねそれを外的なものの取入れとして論じ、それが主としてマゾヒスティックで自己破壊的な形で生じるものと考えるという点である。これは現実に生じたトラウマが内在化された形で内なる攻撃性へと転化するというプロセスと言え、その意味ではこれも現実と内的なプロセスの双方が関与していると言えよう。