一昨日書いた部分、どうも気になって手を入れた。これ自体がとても大きな問題だと考えている。自分とは、意識とは何か。
解離性同一性障害は、一人の人間が複数の心を持つという病態を示すが、それは私たちの多くにとってcounter-intuitive な現象である。のちに述べるように、私たちの自己意識はその単一性、分けられないことindivisive に支えられているからである。The sense of the self in each individual is sustained by its being in-divisive. そのために一般人だけでなく臨床家にとっても十分な理解を得られていなかったり誤解を生じたりするという事情がある。そしていくつかの人格状態が存在するという脳科学的な基盤がほとんど解明されていないという事情は、その誤解や偏見を後押ししているという印象がある。
従来の精神医学的なDIDの理解では、アイデンティティが、複数のパーソナリティ状態と呼ばれるアイデンティティの存在により破綻していることを問題としている。
例えばICD-11のドラフトの定義はこうだ。
解離性同一性障害は、「二つ以上の、他とはっきりと区別されるパーソナリティ状態(解離性アイデンティティ)の存在を特徴とするアイデンティティの破綻が生じ.・・・各パーソナリティ状態は、独自の体験と知覚と思考や、自己や身体や環境とのかかわり方のパターンを有するとされる」(ICD-11 draft).これはDSM-5でもほとんど同じである。
このきわめて多くの臨床家のコンセンサスを得たはずのDIDの定義は、一つのあいまいさや、ある種の矛盾点矛盾を抱えている可能性がある。「複数のパーソナリティ状態によるアイデンティティの破綻」という場合、そこにはある統一した、主となるアイデンティティないしは仮想的に統合されている人格を想定していることになることになりはしないだろうか。そしてその仮想的な統一人格が異なるアイデンティティに分断されていることで、自分が誰かがわからず、混乱している様子をこの定義は描いている。しかし実際のDIDを有する人は、このような形でのアイデンティティの混乱を体験していない可能性がある。例えば二つの人格状態A,Bが互いに完全な健忘を残す場合、A、Bの人格はそれぞれがアイデンティティの破綻を体験するであろうか。彼らの主たる体験はむしろ、一定期間の健忘である。そしてBの体験も同様である。しかしこれは彼らのアイデンティティの破綻なのであろうか。このA,Bの体験は私たちが睡眠に入り、一定時間ののちに覚醒する体験と似ている。A,Bという個別の意識体験を考えた場合、この種のアイデンティティの破綻は体験されてはいないのではないか。
もちろんDIDのケースによっては、A,Bの人格が共に覚醒することもある。その場合は二人の人格が掛け合いを行うという事も生じる。ではその場合はアイデンティティの障害が生じているのであろうか。
(中略)
例えば解離性障害の研究の主導者であるvan der Hart らは、解離性の人格部分 parts of personality という呼び方を提唱しつつ、こう書く。
We describe the division of personality in terms of dissociative parts of the personality. This choice of term emphasizes the fact that dissociative parts of the personality together constitute one whole, yet are selfconscious, have at least a rudimentary sense of self…, and are generally more complex than a single psychobiological state. These dissociative parts are mediated by action systems.
私たちがこの人格部分 parts of personality というタームを選択するのは、それらが一緒になることで一つの全体を形成するのであるが、それらは自意識を持ち、基本的な自己の感覚を持つ。しかしすでにうえで示したように、それぞれの人格状態は自己の感覚を十全に持っているようである。