交代人格が他者性を帯びるというのはどのような意味を持つのだろうか。
内的対象のことを考えよう。これはいわば「瞼の母」のような存在であり、心の中の父親像とか母親像、という事である。内的対象像はその人の精神にどのような問題を起こすのかを考えた場合、その一つの表れは葛藤という事になる。人がある行動をとることを決断した時、父親的な内的対象像がそれを制止したとしよう。「息子よ、それはイカンぞ!」というわけだ。人はそこで葛藤を体験することになる。彼はある考えとそれに拮抗する考えを同時に意識化する。これは心にとってはストレスではあるものの、ある意味では神経症的で一般人が必ず体験しているレベルのものである。右脳がスナックを食べたいという誘惑にかられ、左脳が「ノー」という。これは常に起きていることであり、これと現象としては同じだ。
それに比べて解離においては、この種の葛藤を持てないことが問題とされる。解離ではAという人格の思考aとBという人格の思考bはたがいに解離されている場合には一つの意識の中で出会うことはなく、したがって葛藤は体験できない、という事になる。ある人格が「aだ!」と思っている時、Bは寝ているか、それを内側や外側から見ていて、「いや、bだ!」と言うだろうが、それはせいぜい外側から幻聴で聞こえるだけである。その場合AとBは互いに「他」性を有することになる。
私はこの他者性の根拠として異なるダイナミックコアを有し、ないしは用いているという理解を示したいが、その特徴は異なる情報処理を行ないうることをその指標に出来ると考える。その①としては別々のワーキングメモリーのスペースを維持し、同時に別々の情報処理を行うことが出来ること、②異なる報酬系を用いることとしたい。①に関しては例えばヒルガードが二重意識についての研究において、二つの課題を処理するDIDのケースが紹介されている(されていなかったかな?後で確認する)。もう一つは先に述べたAとBの意見の食い違いなどに見られる。一つの事柄について、Aはaと考え、Bはbと考えるとき、それを快、不快のレベルで判断していることが通常である。これはおそらく報酬系の中の興奮の際にも異なるネットワークが存在するという事になる。事実そうでないと、Aが酒を飲めずにBが酒が好き、という事にならないはずである。