おそらくフロイトの言った「喪の先取りforetaste
of mourning」は私たちが日常生活を送る中でことごとく回避されているのではないか。私たちは通常死ぬことを刹那的にしか考えない。というかそれをいとも簡単に押しやってしまうことが出来る。それを忘れることで日常生活は進んでいく、とまで言っていいのかもしれない。しかしそれが思考の中に流れ込んでくることに抗わない唯一の場があるとしたら、それは精神分析的な関りなのかもしれない。もし私たちの心に防衛機制が存在するのなら、喪の先取りは第一に防衛されてしまうであろう。するとそれを扱うことは私たちが死すべき運命であるということを受け入れることであろう。もちろんそれは刹那的に体験されるだけで、再び遠ざけられてしまうかもしれない。しかしその受け入れと遠ざけの、行ったり来たりこそが、精神分析的な営みと言えるのではないだろうか。無常 transience はまさに分析的な思考により保たれているといってもいいのではないか。あるいはそうすることが分析的な心の作業、と再定義されるのかもしれない。
私はこれまでに何人もの患者さんとの面接で、ある一つの難しい体験を持っていた。それは患者さんが自殺を口にして、それをどのように受けたらいいかわからないということである。自殺の話題もまた典型的な喪の先取りであり、日常生活で必死に回避されているものである。
私がよく思い出すのは、はるか昔に担当したトレーニングケースである。白人中年男性Aは、当時の妻Bに去られて以来数年間にわたる深刻な抑うつ状態と希死念慮を抱えていた。彼は●●という定職についていたが、かりそめに生きているに過ぎないと言っていた。彼は日常的に車を運転していたが、離婚以来シートベルトを一切閉めないということで緩やかな自殺企図をしているのだ、と語った。
Aは一方的に承諾を迫られた離婚を期に生きる希望を失ったのだが、その理由について彼は極めて単純明快に述べた。結婚式の際に、神父の前で「お互いに一生添い遂げます」という誓いを立てた相手の女性が、別の男性を見つけていとも簡単にその言葉を翻して出て行ってしまった。Aは「自分が命を懸けて信じていたものを根底から覆された以上、それ以降何を信じて生きて言ったらいいというのでしょう?」と語った。彼はそれまでも異性との付き合いがあり、相手に去られることでそこまで深刻な情緒的反応を示すことはなかった。どうして前妻Bとの間でそれが起きたかはわからないと語った。そしてそれ以来彼にとってはもう一度生きる意味を見つけること自体が不可能な気がしていた。