2020年5月19日火曜日

ミラーニューロンの不思議 7 


イアコボーニの著書「ミラーニューロンの発見」に面白い例が出ていた。彼は2006年のワールドカップの決勝で、ジタンが相手のイタリア選手マテラッツィに頭突きをした有名なシーンを見て、文字通り頭突きをされた選手の痛みを感じたという。そしてそれはその後に起きたイタリアの決勝点のゴールシーンよりもより鮮明に記憶に残っているという。その時起きたことは、著者イアコボーニのミラーニューロンがイタリア選手が体験したであろうことを脳内でなぞったということになる。それはわかるが、イアコボーニの脳は、なぜ頭突きをしたジタンの方の体験をなぞらなかったのだろうか?
一つの答えは、彼が心情的に同一化したのはイタリア選手の方であり、そちらが彼のミラーニューロンの琴線に触れたからだ。おそらくジタンの感情に同一化していた人は彼の体験を脳内でシミュレートし、「してやったり!」と思ったかもしれない。もしイアコボーニがジタンの心境を想像するように言われたら、彼はある程度はそうするし、そのうちジタンの方にも共感の念を持ったかもしれない。しかしこれらはおそらく同時には起きない。一度に一つであろう。受動態 passive voiceと能動態 active voice の体験は決して同時には起きないのだ。そしてそうすることで両方の態 voice は混同されないようになっているのであろう。
そこで他人から笑いかけられたという体験はどうだろう。今度は笑いかけられた対象は自分である。そしてそれは基本的には受け身的な体験だ。しかし不思議なことに、笑いかけられた人は、必ずと言っていいほど笑い返すのだ。誰かと会話をしている人を横で見ていると、これは実に顕著に表れているのが分かるだろう。相手の表情はこちらに同じ表情を誘導する。微笑みかけは、ほぼ自動的に微笑み返しにつながる。相手の行為をまねすることが、相手に対する能動的な働きかけになるなんて、なんとうまくできていることだろう。そしてこれは、優しさはどのように伝わるか、ということのもっとも直接的な説明だ。母親の顔の優しさが、子の顔の表情のミラーニューロンによるコピーにより優しさの表情を作らせ、それにより優しさの感情を生む。ミラーニューロンを介して感情が写し取られるのである。 
それでは母が子を撫でるという行為はどうか? 頭を撫でられている子どもが、頭の中で誰かを撫でているだろうか。あるいは手が勝手に動いて撫でるようなしぐさをするだろうか? おそらくそれはないだろう。(後に人形に対してそれを行うかもしれないが。)一つの理解としては、母親の顔のミラーニューロンによるコピーで優しさを感じ取っているだろう。そして撫でるという体験は優しさとカップリングする。
では叩かれるという体験はどうか。それも深刻な恐怖心を起こさせるようなレベルで。こちらの場合は、前部帯状回が扁桃核及び情動に関する脳の部位を抑制するということが起きる。そうすることで心は麻酔をかけられた状態(つまり解離状態)でその体験をやり過ごし、ミラーニューロンは活動しないことで、追体験できないことになるのかもしれない。そしてその体験はわからないこと not-me (サリバン)になってしまう。