20世紀の初めに、ロバート・ブラウンという植物学者がいた。彼はある時水に浮かべた花粉を顕微鏡でのぞくと、それがプルプルと細かく振動していることを発見した。それは最初は花粉の生命活動の現われのようにも思えたが、実は水に落としで沈んでいく墨汁(もちろん無生物の炭素の粒である)の細かい粒についても見られる振動であった。これが「ブラウン運動」の発見である。
しかしブラウン自身にも、当時の学者にもそれが何を意味するかは分からなかったので放っておかれたという。人はこうやって理由のわからないことは無視するのである。しかしアインシュタインの炯眼はそれを放置はしなかった。それについてアインシュタインが出したのは驚くべき理論だった。それは水の分子が花粉やインクの粒に周囲からぶつかっているからプルプルと揺らいでいるのだ、というものだった。
しかしどうしてアインシュタインはこの発想に至ったのだろうか。彼は墨汁の周囲にあり、それ自身は見えていないながらも墨汁の粒子に存在する水の分子の揺らぎを見抜いていたのである。それはおそらく彼が物質の本質としての揺らぎを捉えていたからであろう。そうでなければ小刻みに揺れる花粉や炭素の粒を見て、「ほら、周囲の水分子のせいだ!」などと思いついただろうか。
揺らぎ、振動が物質の本質である、というのは言い過ぎに感じられるだろうか? たとえば水の分子の本質は、二つの水素原子と一つの酸素原子の結合、ということのみだろうか。水の分子が振動しているという事もやはり本質的なものといえるだろうか? 私は言えると思う。それはその振動がその水のありよう、あるいはエネルギーの伝達の媒体となっていることを考えれば納得が行くだろう。水はその振動の大きさにより、気体、液体、個体のいずれの形をもとりうる。そしてその振動の大きさによりそのエネルギーを他に伝え、自分自身も変化していく。もちろん水だけではない。物体のすべてがそれによりエネルギーのやり取りをしている。そして揺らぎの本質は、実は物質を細分化していくにしたがって大きくなっていく。光子ともなると質量がなく、波動だけの存在となる。とはいえ粒子としての性質も持つという事でもう私たちの常人の理解を超えているわけだが。すでに第●章でも触れたが、現在提案されている素粒子も、その最終形として提案されている超ひも理論などは、質量はなく、長さと振動だけの性質を有しているとされる。こうなるともっとわからなくなるが、一つ注目すべきなのは、物の本質は、それを細分化していくと最終的には、その揺らぎという形でしか残らないというのが象徴的だ。