精神分析とは分析家と患者が共に揺らいでいくこと
自由連想が揺らぎであるとするならば、精神分析療法はフロイトの想定したものとどのように異なるのか、と言うのは重大な問題である。しかし本書の「揺らぎと心」というテーマからは方向が逸れ、また既にいくつかの著作で問うた問題なので(岡野 新しい精神分析理論、中立性と現実、治療的柔構造)ここではごく簡単に私が思うところを伝えたい。
私は精神分析は何か一つの目標に向かって心の探求を続けるという営みとはどうも違うような気がしている。それは二人で揺らいでいく、というイメージに近い。これがフロイトのモデルとどのように違うかは、すでに述べたと思うが、念のために述べておきたい。
フロイトの考えでは、患者の無意識にはあるドロドロした固まりがあるはずだった。ドロドロとした固まりという表現がどの程度フロイトの考えを言い当てているかはわからないが、それは考えたくない、見たくない、認めたくないような願望やイメージや記憶であり、それが抑圧という仕組みで心の奥底の無意識にひそんでいている。それが何かを探求するのが精神分析である。そのドロドロした固まりは患者本人も意識していないのでなかなか姿を現さないが、ある種の規則に従って自由連想という形で表れてくる。その規則とは象徴化と言い直すことが出来て、一見バラバラでまとまりのない連想は実はある種の見えないロジックにより繋がっている。分析家はそれを見抜くエキスパートである。(そのロジックの例は、本章の前半のイルマの注射の夢に例示した通りだ。)
この一見バラバラでまとまりがない連想が、実はそうではない、と言うところが、フロイトにとっての自由連想は「揺らぎ」ではないという意味である。
さて私が身を持って体験した自由連想は、揺らぎそのものであった。それははっきりした理由もなく、場当たり的に出現し、それを話している私にも意味は分からないし、分析家のドクターKがそれを取り上げて解釈をしたり解説してくれたことはあまりなかった。彼もその連想の流れを聞いていて、おそらく心の中で彼なりに自由連想をしていたであろう。もちろん分析家は自分の自由連想を患者に語るという役割ではないので、私はそのように想像するしかなかったが。
でも一つ言えるのはドクターKは私の揺らぎに5年間付き合ってくれたということである。改めてこう書くといかにそれが長いプロセスだったかがわかる。週に4回ないし5回を5年間、である。私は自分がどのような子供自体を過ごしたのか、父母とのどの様な思い出を背負っているのか、何てだめな人間なのか、自分がいかに将来に希望を持っているのか、いかに子供の健康問題で不安にさいなまれたか、いかにカミさんとの口論で腹を立てたのかを語り続けた。彼は確実にそこにいて、「ふーん?」とか「へー」とか、時には「いつもそれが出るね!」とか「すごいじゃない!」とか「それはつらかったね」と私と一緒に揺らいでくれたのだ。おそらく私は彼が揺らぎに付き合ってくれる中で、自分なりに過去や現在の体験と折り合いをつけていったのだ。誓って言うがドクターKは私の揺らぎをどこかの方向に引っ張っていくことはなかった。彼はむしろ私の揺らぎを認めてくれて、揺らぐままにさせてくれたのだ。そして私は自分の考えを発展させ、自分のケースを終え、家庭を支え、そして最終的に17年間の留学を終えて帰国した。
皆さんはこう聞くかもしれない。「あなたの中のドロドロした固まりはどうだったんですか?」
それに対して何も読者を満足させることが出来るような解答はないが、一つ言えるとすれば、私は私の中に持っていると思っていたドロドロした固まりから解放された、ということだったのだ。そしてそのためにああでもない、こうでもないと考え、反省し、回想し、諦め、受容し、新たな希望をもった。それは長いデフォルトモード、安静時脳活動の集積だったのかもしれない。そして確かに私は以前よりは自信を持って分析のトレーニングを終え、帰国したのである。